先週の19日金曜日に経団連の中西会長が、企業が今後「終身雇用」を続けていくのは難しいと述べ、雇用システムを変えていく方向性を示したことが報じられました。大学側と経団連が議論した結果が今週公表されるということです。
このニュース聞いてどう思われたかは今、これを読んだ方が何歳で、どの程度の規模の会社に勤めてきたかにより大きく相違することでしょう。
大企業に勤める45歳以上の方は、「そんなこといまさら言われても約束違反でしょ」と思われたことでしょう。家賃補助に住宅ローンの利子補助や提携銀行のローン金利割引、立派な保養所に、法定以上の健康診断や予防接種、持ち株補助、それに膨大な退職金や企業年金。給与制度にも扶養者補助(子供)が今だにある会社も多く、単に求人票の給与水準以上に中小やベンチャーとは大きな差のある待遇は私にとっても羨望と嫉妬の対象でした。「M&Aで買われた子会社」にはこうした制度は買われたあともずっとありませんから。
一方で同じ会社の若手は、「ダメおじさん排除しないと会社の業績も上がらないし、自分の給与も上がらない」と思われ拍手喝さいしたことでしょう。でも、それは早計です。業績が伸びなければ富士通のように早期退職を全面的に45歳以上で実施するという会社はあると思いますが、そうでなければ、上の世代は逃げ切りセーフで、非終身雇用が本格化するのはあなたの世代からです。大企業は「激変できない」道徳律に縛られていて割を食うのは若年層というのは年金と同じです。
中小企業の皆さんは、「終身雇用」なんて昔から関係ない。日本の中小企業の勤労者の割合はおよそ7割ですので、この「終身雇用終了」は「一部のエリート企業のエリート層」の話であり、大半の国民には関係がない。その人たちの気持ちは、普段から優越的地位を振りかざして無理をいう大企業に対して「いい気味だ」に近いでしょう。中途採用がしやすくなることや、年齢と給与の正比例ルールが切れることは、おそらく中小企業にとってはプラスの要素が多分にあります。
そもそも、「終身雇用」とは何だったのでしょう?先ほど「大企業」と一言でいいましたが、これも実は一様ではありません。証券業界では数百人入った同期のうち、60歳まで生き残っているのは1,2名、あとは競争の中で敗れて社外やグループの本業とあまり関係のない会社で余生を過ごすという競争的な企業は昔からありました。入った会社で定年まで、というのは実は大手製造業や銀行を中心としたほんの一部の企業だけの話であり、それを踏まえての就職人気ランキングでもあるわけです。
【生産性とコストの年齢推移から見る雇用・給与制度】
次の図は、私が先週から資料公開をし始めた経営セミナーの「人的資源管理」の回で使用した資料です。
終身雇用とは、何だったのか?というと、個人単位で見た場合には、人さえ増やせば経営規模を拡大できた需要拡大期に「辞められては困る」という会社側が生産性の高い若い時期の給与をより生産性の低くなる後の時期(当初は45歳~55歳定年だった)に支払い、残債を退職金で支払う、ということで、生産性がコストを上回る時期での退職を防止することにあったわけです。一方、会社全体で見てみると、これは、高齢層のコストを若年層が内部補助するという仕組みです。あるいは、負担の発生を先送りして当座の利益を拡大してお化粧したとも言えます。構図は「年金問題」と同じです。つまり、これは常に若年層の人口が高齢層を大きく上回る、「企業規模が拡大し続け、若年労働者が無限に供給される」ことが前提にある仕組みだったわけです。
それが時代が変わり、若年層は日本全体で減っており、収益・企業規模の拡大は海外込みではできても日本ではもう望めない企業が大企業では多くなっている中で、海外と日本とでこの「内部補助」の仕組みができない以上、この仕組みは成り立たなくなりました。ここ20年の「派遣労働」「非正規化」最近の「外国人労働者」などの企業の労務の変化はすべて、このグラフ右側の「負債」をできるだけ先延ばししつつ、グラフ左側の「資産」のプラス幅を増やすことで問題の破局を避ける動きでした。そして、それでも耐えきれないとなると、役職定年という形で右側の負債を減らそうとし、それでもダメならば早期退職という切り札を切り、あるいは60歳再雇用時の「嘱託」という制度をもちいて、なんとか生産性(青い線)にコスト(赤い線)を近づけようとしてきたのが企業の姿だったのです。
しかし、人口自体は右に行くほど多い(何しろ一番日本で人口が多いのは、70歳~72歳、その次は44歳~47歳でそれ以下は漸減していくのですから)ので、政治は、この層を守ろうとするし、国はまた「年金制度」「医療費」で同じ問題を抱えているので、とれる大企業にこの負担を押し付けようとすることで、法定福利費はこの10年余りで大きく増大しました。例えば、その増えた法定福利費のうち、かなりの部分は「国民健康保険」(つまり高齢者医療)への拠出金に充てられていて、働き手の自分たちのために使われているわけではありません。今や財政の健全な大手健保の資金の4割程度が高齢者医療への拠出に充てられているのです。介護保険も同様にかなり増大しており、働く世代を圧迫しています。この国自体が維持不可能な高齢者福祉を前提にしているという問題は今回は置いておきますが、その負担を企業と労働者に見えにくい形で押し付けているのも企業において、高齢層のコストと稼ぎのギャップが増大している一因です。(法定福利費の大半は給与水準に比例して負担が大きくなるのです。)企業が一概に悪いというわけでもない。しかし、企業はもはや次のような体形に移行せざるを得ません。
つまり、「個人の生産性=個人のコスト」です。当たり前だと思いますか?今までの日本ではそれが当たり前ではないとされてきたのです。稼いでも稼がなくても給与は大して変わらない。大企業でも一部のエリートは30前から別コースで経営者教育を受けるが、そのほかの人は大して差がつかないし、下がりはしないという制度が今だに当たり前のように運用されています。それが、「無理がある」と白状したことの本質であり、本来は、上のように個人の生産性にみあった給与にならざるを得ない、ということを認めなければならないのです。
私は、中西会長は立派だと思います。いつか誰かが言い出して、国のごまかしに付き合うのをやめなければならない、これを続けていてはいつかまたバブル後のようなハードランディングがあちこちで相次ぐ状況が続き国が荒廃することは明らかであり、関係セクターが共通認識のもとにソフトランディングを描くことがリーダーの責務であると考えます。その時最も苦境に立たされ、きっと最後まで逃げて済まそうとするのは実は企業ではなく、「国の社会保障費」なのですが。
企業は(国家も)こうした「口に苦い」ことは甘言を弄してなんとかごまかそうとします。たとえば、「成果を上げれば、それに見合った報酬をもらえる制度」とかですね。それは一面の真理ですが、正確ではありません。
【年齢と生産性の関係は現代においてどうなっている?】
この話にはもう一つ、重要な点があります。それは上のグラフの青い線、つまり、生産性の年齢推移がどのようになっているか?という点です。私のグラフでは30歳過ぎをピークに下がり続け、50歳ではピーク時の半分程度になっています。若い層は、これを「もっとひどい」というし、該当年齢は、「そんなことはない。歳を取っても、判断力や経験で補える、むしろ上がっている」と言い張る。
生産性とは何か?とは「稼ぎだす力」です。個人で売っても良いし、売る人に売れる商品や仕組みを提供して間接的に貢献するのでもよいでしょう。しかし、仕組みを駆動してそのサイクルを早めることは「生産性を高めて」いますが、ただハンコ押すだけならば、それはいなくても関係ありません。判断もたぶん誰でもできます。そもそも管理職の方は、上がって来る申請のほとんどをそのまま承認していませんか?私もそういう人に仕えましたが、言葉使いや書式や文末処理だけ指摘する人とか普通に50代でいますよね。それは明らかに不要です。
せっせと汗を書いて営業して回るのは若手の仕事で、45歳以上はそんなことをしなくても良い、と公言する人にもあったことがあります。その人の言い分は、「昔さんざんやったのだから」でした。それは、上のグラフが意味するところであり、そういう人の存在がこの終身雇用制度を崩壊させたのです。
「判断力は向上している」も変化が今ほど早くない80年代以前の高齢層はそういう言い方をしていましたが、今は根拠に乏しいでしょう。技術も市場も5年前の情報はもう使えないし、人脈すらなかなか相手も自分もそのバリューが使えるポジションにい続けることがない、古い知識や人脈の減価速度が速い時代になってしまいました。今は「ここ2,3年に得た情報と人脈」でしか稼げない時代になってきています。さらに、情報ツールの発達もあり、管理者の役割は「情報を自分に都合よく制御」ではなくなりました。(驚くべきことに昔はそういう人がトップにたくさんいたのです。)企業が要求する管理者の役割は20年前からはるかに高度化していますが、今の高齢管理者は年次で上がっている営業や生産の優秀者ですので、こうした基準で選定されていません。
管理者数というのはコスト体質に響いてきます。同様に管理部門や営業部門内の事務員数や、いわゆる「企画人員」というのも稼ぎが悪い傾向が顕著です。これらはできるだけ減らしていく傾向がすでにこの20年続いているし、今後も続くでしょう。
これは私の考えですが、製造業の現場では上の50歳にはピークで半分、というのは現実であるし、デスクワークでも、人により差があってもこれが現実、むしろこれ以上の差があるのではないかと思っています。そして、反論があるならば、実際に営業に出て、30前後の社員よりもたくさん売ればよい。それができる人は会社にとって必要な人であり、できない人はそれに見合った給与にならざるを得ない。その額は、大手企業の販管費率やコスト体質を考えると、ざっと「自分が稼いだ額の半分」です。
Twitterを見るとこうした「ダメおじさん」を揶揄する声が沢山あります。しかし、ダメおじさんは昔からダメだったわけではない。その人たちも20代から30代前半まではきっと会社の中心で稼ぎ頭だったのです。それが、ルールが変わり、社会が変わる中で対応できなくなっているのです。製造業のラインでは、多少速度は遅くても練習して老眼鏡をつければ完成させることはできますが(ライン全体の速度に影響するのでこれも困るのですが)、デスクワークでは新ルールに対応できないと、あるいはツールにすら対応できないと、完成させること自体ができません。だから、句読点や文末、書式という「社内の伝統を語る」ことしかできなくなってしまっているのです。本人もきっと、自分が社会の価値の変化に置き去りにされていることがわかっています。でも、子供が大学を出るまで、家のローンを返済するまで…そのことをごまかすしかないと思っている。多くの場合、ダメおじさんの背後には超安定志向の奥さんがいて、ダメおじさんのささやかな挑戦と投資を妨げているのです。ダメおじさんには時代の変化は見えているけど、奥さんには見えていないため理解されることはさらに困難です。
勉強すれば、努力すればよいではないか?と若い方は言われるかもしれませんが、人間の脳は40歳を過ぎると新しいことを受容する力が落ちるのです。体力も落ち踏ん張りがきかなくなっていくのです。以上が、「ダメおじさん」の生成過程で起きていたことです。
【終身雇用終了後の生き方】
今でも本当はそうなはずなんですが、それを企業が担ってきたのが日本の不思議です。これからは人生設計は、企業ではなく個人が担うことになります。この例でいえば、30代に稼いだ余剰資金は、企業に任せてあとからもらうのではなく、その場で受取り、インデックス投信などに投じることを個人が自分の責任で行い、自分のライフプランの資金需要に応じて投資を行う。それも実は当たり前のことです。企業がそもそも社員の人生のすべての面倒を見る社会主義自体、旧ソ連と同じ無理があったのであり「自分でなんとかしなければならない」のです。
若い世代は、上の世代に文句を言っても、それぞれの世代は自分の利益最優先でしか考えませんし、民主主義の多数決ではどうやっても負けますので、これからも割を食い続けます。上の層と痛みを分かち合うという解には決して至らないでしょう。できることは自分で力をつけて、自分で稼げるようになることだけです。そして、それができるならば、高齢層の負担を背負わされる大企業よりも、それがないベンチャーや外資の方が自分にとって有利な選択となる可能性があることを具体的に検討するべきです。
ちなみにネット世論を見ると安定志向の若者は余計公務員志向が強まるだろう、という意見がありましたが、地方公共団体や旧一種以外はその傾向があるかもしれません。しかし、一種公務員は昔からなかなかの競争社会で、生き残りは大変ですし、いい天下りポジションは自分で探さないといけませんのでやはり大変です。
【いずれ来るもう一つの波】
実は、この制度改革にはもう一つ大きな山が待っています。それは、「経済補償金を支払っての解雇を可能にする」という制度改革です。これは中国では法制度化されていますし、45歳以上の早期退職制度というのは実質的にはこれです。これについては以前少しこちらの記事でふれましたが、また別の機会に解説することにします。
こうしたことは、「貧富の格差を招く」という批判をよく浴びますが、それは当たっていません。今ある「世代の格差」「最初に勤めた企業規模の格差」が「個人の力量の格差」に置き換わるだけです。
企業はどうするべきなのか?それは、第一に「成果に厳しい制度」に移行することです。簡単に言うようですが、実はこれはかなり大変でして、制度を入れれば済む話しではありません。最近、クラウドでこうした制度の仕組みを提供するサービスが流行っていますが、要注意です。この制度の本当の難しさは、「適切な課題を設定し」「その課題を達成に道びくプロジェクトマネジメントのできるリーダー」スキルが必要なことにあります。それは今の「大組織」のもっとも不足している点でもあるので、これらは今後15年程度の「ビジネスリーダーシップ」の具体的トレーニングとして流行することでしょう。そして、そのことの意味を理解せず、そこの人材育成や補充なしに移行して、制度が形骸化していく企業がしばらくは続出することが目に見えるようです。私としては得意分野なだけに少ししめしめと思っている部分もあります。