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私的平成企業経営史①平成元年~10年

平成元年に私は大学に進学しました。最後の共通一次世代で、共通一次の受験票は「昭和64年」でしたが会場に行くと、「平成元年〇〇」と看板があったという世代です。その一か月の間に消費税法案が成立し昭和天皇が崩御されました。

もうすぐ平成が終わりということでどこもかしこも平成プレイバック。私も20年以上経営〇〇室や経営自体に関わってきたということで、今日と来週の2回は若い方があまり知らないであろう、そして年長者があまり言いたくないであろう「昔のこと≒日本の過ち」を振り返る、という記事を書きます。今日は平成元年~平成10年(1998年)までのお話しです。

【バブル経済の実像】

私が大学生だったころ、世の中は「バブル経済」の真っただ中でした。土地の値段がみるみるうちに上がっていき、遙か郊外の住宅街が売り出されていきます。中央線で言えば高尾よりも先の住宅街が開発されていきました。それに連動して株価も上昇していき活況を呈し、「大手証券会社の大卒2年目の女子社員のボーナスが、新日鉄に勤めるその父親のそれをはるかに上回る」というようなことが本当に起きていました。私の周りにも「土地成金」の子息がいて、外車に乗っていました。かくいう私もそういうお金持ちのご子息の家庭教師を時給7千円で週3時間お請けして(そのほかに5千円×2時間の子も2人受けていた)学費の足しにしていました。

学生時代に企業に訪問したり、OBにイベントの相談に行ったりしても、その足で歓楽街で夜中の1時まで豪遊し、その会社のタクシー券で1万円以上使って帰宅させてもらうようなことが私も度々ありましたし、私の上の学年では、超大量採用時代で内定解禁日(たしか10月1日でした。)に他社に行かせるのを阻止するために、内定者が9月28日から数日、ハワイ研修が組まれるということがあり、それに行かせてもらった先輩がいました。その一方で「地上げ屋」という脅迫まがいで無理やり売らせるような手法が実際に都心部では横行していて、庶民の小さな民家がいじめられているように周りをフェンス等で囲われている光景が都内のあちこちにありました。そこはいずれも今では立派な大型オフィスビルが立ち並んでいます。土地の高度効率的利用による経済活性化という時代の正義に「小さな一家の歴史」は無力な時代でした。

これを戒める声があったか、というと、少なくとも私の知る限りではほとんどありませんでした。田中内閣の列島改造ブームからオイルショックまでの間にも同じような現象があり、「土地本位制」という言葉が独り歩きし、そしてオイルショックとともに多数の破滅を生んだ事例があることを知っていましたが、あるディベロッパー(私は土木計画系の学生だったので)の先輩との会食中に横浜中華街でその話をしたところ、明らかに不愉快な顔で、「オフィスの空室率は逼迫しており、実需の伴った開発である」と言われて別のテーブルに移られたことがありました。

【バブル崩壊、あの企業が新卒採用0、同級生がその犠牲に】

ところが、公定歩合の上昇や不動産融資への「総量規制」(これが時代にキーワードでした)を通じ金融は徐々に引き締められ、1991年秋には、「バブルは崩壊した」という状況が明らかになりました。私が大学三年の時です。この歳までに就職した人-今年50歳以上の人-は、日本社会のあらゆる面で「逃げ切り世代」です。

翌平成4年は、日本航空はじめ日本のそうそうたる企業が「新卒採用を0にする」という急激な縮小政策を取りました。まだ、リストラという言葉のない時代でした。当時の日本企業にとって「雇用は絶対」であり、企業と既存社員を守るためには新卒を抑制する以外に方法がなかったのです。私の大学の同じ研究室の友人に、ずっと前から日本航空に就職したいと願い、卒論でも航空ダイヤに関する論文を書いていた人も、このあおりを受けて、泣く泣く他社に就職せざるを得ませんでした。東大はそれでも恵まれていました。平成5年卒~7年卒ぐらいの大学生、高校生は「就職先がない」という状況が現実のものとなり、大学院に進んだり(状況は2年後さらに悪くなっていた)、「一旦」のつもりで工場のアルバイトについたり、ということを選ばざるを得ない人がたくさん生まれました。これが世に言う「ロスジェネ」世代の誕生です。

私自身も実は、病気で1年半入院したりするなどしたため、平成7年になって再度就職活動をしました。ところが、このころになるとキーワードはさらに進んで、「不良債権処理」「ゼネコン問題」「30社リスト(オリコの融資先)」になっていました。100社以上応募しましたが、面接に至ったのが1社だけ。その一社も、ほぼ「取れない状況だけど会ってみました」状態でした。一応私東大卒で、成績もよい方でした。一般常識も経済や業務の知識も普通の社員以上にありました。(協調性云々の問題はさておき)それでもそういう状況だったのです。私自身も正社員での就職を諦めて(というのは今の妻と暮らし始めるために収入を必要としていた。)埼玉県の家電店の倉庫整理のアルバイトで月11万円程度の収入で生活し始めました。たしか、時給680円だったと思います。そこから先はこのブログで以前書いた通り、幸運に恵まれ、正社員ルートに復帰できたのですが、大手証券会社勤務の父からは、さんざん「なんでそんなチンケなとこに勤めるんだ」と非難されました。私だってあなたのような会社に勤めたかったけど、そんな口はなかったんだよ…。まあ私の話はそのくらいにしておきます。

【ディベロッパー、ゼネコン、そして大手金融機関が次々潰れる】

地価は半値以下に値下がりし、世の中には高値つかみしてしまった、「ババ抜きに負けた人」がたくさんいました。これは、前述の「狂乱地価」の時にも見られた状況です。そして、その人たちはそれを担保にお金を借り、さらに買って資産を増やし、値上がりしたところを売却して差益を得ようとしていましたが、それが行き詰り、金利は上昇していますので、返済額は膨らみます。そうして破綻していく不動産系の企業が次々現れました。有名なところですと、「末野興産」が「住専処理問題」の中で大阪弁の社長がマスコミで悪者扱いされていました。しかし、彼は愚かではあったかもしれないが、巨悪ではなかった。
住専問題とは住宅向け金融の専門会社5社が経営破綻し、国策で処理されたのですが、当時からこれは、住専や危なっかしいマンションディベロッパーの問題ではないと皆言っていました。これらにお金を貸していた大銀行を破綻させないための税金投入だったのです。

私は土木工学系の出身で、同級生のかなりの割合がゼネコンに就職したのですが、ゼネコンもバブルに踊らされた業界であり、いくつかの中堅ゼネコンが経営破綻し、あるいは救済合併されました。同級生が就職して3~5年目のことでした。そのタイミングで辞めざるを得ず、以後中小の設計コンサルなどを渡り歩くような人生に路線変更させられてしまった友人もいます。私も含め、この様子を見ていた人は、「結局大きいところは国に手を差し伸べてもらって、小さいところは見捨てられる」というようなことをよく言っていたものです。

平成9年、1997年になると、この最中で消費税率がアップされます。この時の「特需」の話はこちらで書いた次第です。しかし、その後の景気は一層冷え込みました。それは電気店の売り場でひしひしと感じました。

このころの私は勤務先がメインバンクから融資縮小のハメに会い、「パソコン市場の将来と売り場拡張による投資対効果」の説明(実は運転資金目的なのですが)をノンバンク(当時は東総信(のちのクオーク、セディナ)が盛んにCMをやっていました。「トーソーシン」というサウンドロゴを覚えてらっしゃる方もおられるでしょう。)に一生懸命やっていました。それが今の仕事につながっているのです。メインバンクが上場企業を守らない、メインバンク制の崩壊の始まりでした。この年、そのさなかで、「10大都市銀」の一つであった北海道拓殖銀行が経営破綻します。この時の新聞の大きな見出しはよく覚えています。

 さらに、翌平成10年にかけて日本長期信用銀行、日本債券信用銀行、三洋証券、そして四大証券の一角を占めていた山一證券と破綻が続き「金融危機」という言葉がメディアで盛んに言われるようになります。ちなみに山一證券の破綻は、長年の「簿外債務」という不正経理が限界に達したことによるものであり、記者会見での社長の泣きながら「社員は悪うございません」と絶叫したシーンは時代を象徴するシーンでした。私がその頃転職した会社では、山一の人と机をたくさん受け取っていました。

そして、ビジネス界のキーワードは「不良債権処理」へと移っていきます。私も財務部長から、「注意先に分類されていて」と自社が言われることに、「ビジネスの世界では会社がモノのように扱われる」感覚を20代にして覚えました。

【マネーの奔流】

同時に平成9年には、アジアでは通貨危機が発生しており、タイから始まった下落が韓国に波及し、ついには韓国がIMFの管理下に置かれる状況が発生しました。この時、私も初めて耳にしたのが、「ヘッジファンド」という存在。国の実態経済と表面上のレートとの差異はいずれ一致する方向に振れるはずなのですが、現実にはギャップが存在しています。これを利用して多額の資金を「実態側に振れたときに有利になるよう」投下するのですが、このマネーが中堅国の為替相場を左右するほどの規模に成長していることが初めて皆の目に見えて分かった事態でした。そして、1985年のプラザ合意による円高以降、繰り返されていた政府による「為替介入」は、実態としてほとんど効き目がない、金融の大きな流れの前に、あまりにも小さな存在であることが明らかになりました。政府の役割が変化せざるを得なかったのです。今だに昔のことが記憶にある人は、「為替介入」「協調介入」と現実を無視した発言をしますが、それは「見たくない現実を見ないで自分の頭の中の理想を言っている」状態です。このことは翌平成10年のルーブル(ロシア)危機でさらに顕著になります。

【終身雇用の幻想の崩壊と女性の活躍できる環境整備】

会社の中では、当時私も「パート社員のコスト削減や社員の効率配置」という今に通じる仕事をし始めていましたが、平成10年まで、私は、「派遣社員」という言葉を聞いた記憶はほとんどありませんし、「契約社員」というのも「準社員」という言葉で自動車工場の期間工募集の日曜のオリコミ求人で見たぐらいで一般の社員では記憶がありません。派遣法は1986年(昭和61年)に成立したのですが、当初は、通訳などの特殊技能のために作られた制度で、一般の職種に拡大したのは、1999年(平成11年)でそれも、「一年間に制限」されていました。ことの是非はともかく、当時の日本は、一日8時間の雇用を前提とする一律正社員労働しかありませんでしたが、こうした多様な働き方は、この10年の企業経営の混乱の中、「潰さないための非常策」として生まれてきたのです。でも、あの時、ダメになった多くの会社は潰して、変革的で効率的な会社に人員を移行させておけば、今に至る「社員の人件費を抑制して会社を延命させる」ことがこれ程蔓延する社会にはならなかったのかもしれないと思うことが多くあります。

また、男女雇用均等法が施行されたのは1986年(昭和61年)と平成のすこし前なのですが、実効性がない、などの批判を浴び、罰則を伴う改正が行われたのは、平成9年(1997年)でした。ですので、今の50代以上の社員は「女性差別が職場に厳然とあり、それが当然視された」中で若い時代を過ごしており、ともすればその「当時の常識」が顔を出しますし、当時を懐かしみます。逆に言えば、あと10年でそうしたセクハラ、パワハラは消失するということです。大手製造業で「均等法一期生」の女性の話を2001年頃に聞いたことがあるのですが、まさに、「常識との闘い」の中で勝ち取ってきた平等でした。私は平成8年頃、女性社員数人の集まりに呼ばれて、ビクビクしていくと、「なぜあなたは女性を対等に扱うような視点を持っているのか、会社への提案の参考にしたいので教えてほしい」と言われて怖かったことがあります。正直に言いますと、対等に扱うような理念、思想をもっていたのではなく、人、特に女性に対してビクビク脅えていただけです。(今でもそういうところがありますが)

【これは高度成長モデルの圧壊だった】

人は一年の変化は過大評価する傾向があるが、10年の変化は過小評価する傾向がある、というのはビルゲイツの言葉です。きっとどの10年を区切ってもそうなのでしょうが、10年という単位でみると時代は大きく変わっています。そして、この10年は、バブルからの撤退戦を戦い続ける中で、企業が拡大を前提とした今までのルールではもう立ち行かないことを認め、終身雇用を捨て、メインバンク制を捨て、護送船団方式を捨てて、「競争」をメインに変わり始めた時期でした。

労働者側からみると、終身雇用の崩壊を招いた「非難すべき」時期とみる意見も多く聞きますが、私はそうは思いません。人口増とアジアとの貿易拡大と経済競争力格差を利用した貿易輸出の拡大を背景とした経済の拡大は昭和末期の中曽根内閣に限界を迎え、国の成長という船に企業が乗船していた時代から、企業が(今はそれが「個人が」に変わりつつある)それぞれ自分で競争を勝ち抜かなければならない時代に変わり始めていたのです。

もう一つ、歴史は繰り返し、狂乱地価と同じ結果をバブル崩壊は日本にもたらしました。たぶん同じことが起きたら、それによって大儲けしている業界はいうでしょう。「今回は違う。実需に基づいている」と。それを信じてはいけません。

次回、29日は、平成11年~20年に私が見た時代の流れを振り返ります。


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