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根拠のない楽観と、懸命な希望

 昨年来の新型コロナウイルス禍で、EC業界は大きく伸長している。弊社のお客様も同様である。さらなる伸長を目指す新年度を前にした2月に、とあるECモールの中の人との商談の中で、その人がこう言っていた。

 「日本でも5月、6月になりワクチンがいきわたり、活動が自由になれば、ブームは収束するとみて事業計画を立案している」

 その会議が終わった後、私は顧客の経営者にSlackで「信じないで在庫を積み増す傾向を今年いっぱい持ち続けてくれ」とお願いした。(輸入品が多く、半年先の需要を読む必要がある顧客なので。)

 この勝負は、今のところは私の勝ちのようである。なぜ私がそう判断したかは後述する。

 そして、そこから2か月ほど経過した、今から2週間前、大阪の状況悪化が顕著になり始めたころ、再度、「ゴールデンウイーク前の国内調達商品の在庫を倍増させてくれ」と経営者に頼んだ。昨年のこの時期、片っ端から欠品してしまって機会損失を生んでいたのだが、その状況が再現すると読んだ。経営者の方は躊躇した。そして、「微増」の指示をした。そこまで状況が悪化するとも思えないし、悪化したとしても閉店するとも思えなかったのである。
 こういう時には、一度在庫が切れると、その時にはメーカーの在庫も切れていて、もう補充は間に合わない。自分を信じるしかない、ということをパソコンブームの中の20代の家電バイヤーの時代に何度も痛感したので進言したのだが、もちろん私の会社ではなく、彼が全株を持ち全リスクを負う会社である以上、彼が自分で負えるリスク範囲を決めることに異議はない。

 この在庫増の賭けがどう出るかは、2週間後のお楽しみである。失敗したら、私は自室で責任を取って買い取った家庭用品の在庫に埋もれているかもしれない…買いたい商品も多いので「ちょうどよい」とあきらめることにしている。

 私は、自国生産ではないワクチンは、生産国でめどが立って需要を供給が上回るようになるまでは入ってこないと確信していた。最近になってようやく、政府関係者から、5月下旬からは週1000万回分の入荷がある見通し、という発言が個人的に公表されるに至ったが、政府の公表値で今年上半期に入ってくると公表されている数は非常に限られていたし、それも守られるかどうかは危ういと思っていた。(守らないとペナルティがあるような契約にはなっていないということも国際巨大製薬会社が相手だけに推測がつく)
 つまり、6月になれば、交流活動が再開されるという先述のECモール関係者の議論はまったく根拠がない、「楽観的な空想」だったのである。(あるいは、アメリカの同様の予測をそのまま日本でも適用できると誤認したのではないか、とも思った)

名著「夜と霧」(心理学者 ヴィクトール・E・フランクル著 みすず書房)は、フランクル自身がナチスの強制収容所に収容された際の人のありようが精緻に描かれている。その中でこんな場面がある。

ある収容所では、1944年のクリスマスから1945年の新年のあいだの週に、かつてないほど大量の死者が出た。これは、強制収容所内の医長の見解によると、過酷な労働や食料、季節の変化や伝染病からも説明がつかなかった。最終的に医長は、この大量死の原因は多くの被収容者が、「クリスマスには家に帰れる」という、根拠のない噂が収容所に蔓延し、その偽物の短期的な希望にすがっていたことに求められる、と結論づけた。クリスマスになってもこの悲劇が終わる見込みがないと悟った被収容者たちは、落胆と失望にうちひがれ、精神的にだけでなく身体的にも抵抗力を失い、死に至った。自暴自棄になりスープをタバコに交換してしまう者もいた。
 その一方で、力尽きることなく希望を捨てずに生き残る者もいた。


 ワクチン接種は今年後半からは軌道に乗るだろうが、それでも、ワクチンは万能ではない(再生産指数を下げ、爆発的流行を抑制する効果は接種率が上がればある程度期待できるが、日本人はこうした公衆衛生の意味を世界で最も理解せず非科学的な利己に走る傾向が強い。変異は継続して起り続け、たまに毒性の強い種が世間を騒がせる。ワクチンはやがてインフルエンザのように、「流行種を中心とした混合型」になって、毎年接種するような形になっていくだろう。そして、インフルエンザ同様に毎年何千人か、1万何千人かの命を奪っていくだろうし、その対象に自分が含まれる可能性も人口比で1万分の1程度はある。

 飲食店経営者の方、イベントエンタメ産業の関係者の方、あるいはその他の経営者の方の中に、「一年もたてば良くなるはず」「いつかは改善するはず」という「根拠のない思い込み」があることを、この数か月数多く目にした。今でもまだ、そういう人が多くいて「もう少しの我慢」と言い続けている。

自分が代金などをいただいて、相手の会社に責任を負っていると思っているときには、「そんなことは全くない、今の状態が続くことを前提に経営をシフトするべき、具体的には、来客型施設の経営では満席で終日回転させるというようなことを前提とした経営計画は破棄して、現状をベースに立て直すべき」ということを強く主張したのだが、それを聞き入れた人は実は全くいない。私が利害関係者でも、委託関係でもない場合には、黙っていた… 

 昨日から、東京では三度目の非常事態宣言が開始された。世間では、「政治の無策」を非難する声が多く聞かれるが、疫病は、地震と同じような天災であり、政治の力ではどうにもできないほどの環境条件であることを歴史は示している。むしろ、驚異的なスピードでワクチンが開発され生産され、半年で非生産国にも順番が回ってくることに人類の叡智を感じる。

 そのような中で、希望とはなんであろうか?それは、政府が補償してくれることを期待することでもないし、夏になると湿度が上がって感染率が下がる(という事実はなく、昨年は沖縄では夏に感染が拡大した)ことを神頼みすることでもない。
 自分が持っている知識や技能を生かしつつ、新しい世界で生きていく決意をし、そのための努力を日々することが、今の私たちにとっての正しい「希望」であるはずである。

 先日も、事業再構築補助金に関連して、「場所が使えるので飲食店をやりたい」という案件があった。店舗はやめて、テイクアウトとデリバリーにしなさい、と思うのだが、人は変われない、とつくづく思わされた事例だった。(しかも、その場所は、コロナで飲食店がつぶれた場所であった。)

前述の「夜と霧」にはこういう一節がある。

 強制収容所の人間を精神的に奮い立たせるには、まず未来に目的を持たせなければならなかった。生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていても何もならないと考え、自分が存在する事の意味をなくすと共に、頑張りぬく意味も見失った人は痛ましい限りだった。そのようなひとびとはよりどころを一切失って、あっというまに崩れていった。(同著より引用)

 与えられた(変わってしまった)世界の中に、自らの生きる意味、目的を見出し、そしてそれを同じ船に乗る従業員たちに灯として掲げるのは、経営者の責任であり、そして経営者という生き方の「喜び」「生きる意味」であり、自らと従業員の「希望」であるはずである。

 まず、経営者自身が、今の状況をどう生きていくのかを、政府任せ、雰囲気任せではなく、決めなければならないはずである。

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