日曜の午後、近所の食品スーパーに行ったときに、非常事態宣言下だというのに混み合う店内で、私だけが異変に気付いていました。妻に「このお店月末に締めるんじゃないかな?」と言ったのですが、その時点ではそのような情報はありませんでした。そして一昨日…やっぱり閉店が対外的に発表されました。
なぜ私にはそれがわかったのか?
それは「店員の心の様」が丁寧を心がけつつも、レジや品出しの様子、そして棚の整えよう、表情などに現れていたからです。おそらく、その日の朝に店員に告知されたのではないかと思います。
食品スーパーは昨年3月以降、新型コロナウイルスのステイホームの影響でどこも好業績に沸いていて、その店舗を運営する会社も大手の一角で好業績です。そんな中での閉店は店員にとっては晴天の霹靂だったのかもしれません。理由はわかりません。定期借家の期限で賃料で折り合えなかったのかもしれませんし、近くに別の大手競合店舗ができて好調であること、あるいは安売り系の大手が定借の後釜の座をゲットしたのか…いずれにせよ、店員の日々の精勤とは関係のないところで決まったことでしょう。
なぜ、私がそんなことに気づくのか?それはそんな経験をこの正月明けに何度か「させてきた(してきたではない)」から、そんな空気の震動に敏感にならざるを得ないのです。今日はそんな私的な光景を告白することにして、連載の方はお休みさせていただきます
1月の「会社清算を発表する日」私はインフルエンザになった
この話は、まだ10年もたっていない、関係者がまだたくさんいる話ですので、少しぼかして書かせていただきます。私が管理系の担当取締役をしていた上場連結子会社で債務超過をどうしても縮小するに至らず、会社を閉めることになりました。この間の経緯は、時々このブログでも紹介しています、あの会社です。
その検討自体は数か月前から社長と私で親会社と進めていたことで、12月の取締役会で承認され、年始の朝礼で社員に社長が概要を、詳細、つまり会社都合での全員の退職とその際の会社としての対応について私から説明することとし、年末にかけてその説明文書を用意する作業をして正月休暇に入りました。
その前にも私は管理職として店舗や会社の閉鎖を経験していましたが、「経営者」としてその実行を全面的に負うというのはさすがに初めてでして、正月は生きた心地がしませんでした。というよりも今思い出そうと思ってもその正月のことはあまり記憶がありません。明けて5日(たしか4日が日曜だった)、前の晩から風邪っぽいなとは思っていたのですが、目が覚めると異常な高熱です。測ると39度を超えていました。そうは言ってもどうしても行かないわけにはいかない日です。社長にお電話して「朝礼の時間を11時とかにできませんか?」と言うと社長は、「延期しよう」とその場で即断してくれました。医者に行くと…見事にインフルエンザでした。よりによってこんな日に…実は私、1989年1月、明けて平成元年の共通一次最後の世代なのですが、その日にもインフルエンザでした。(そして受験しました。)
当然1週間は出勤できず、次の週に小さくなりながら会社に出ていき、他の役員と説明の確認をし直して、再度の会議を招集したのは、1月13日。私は大量の冷や汗をかきながら説明しました。できるだけ率直に淡々と説明しようとしたつもりですが、実際どうだったのかはあまりの緊張によく覚えていません。
それからの3か月弱は、多くの人の身勝手さや自己保身を目の当たりにし、礼儀も仁義もあったものではない中で残務整理の中で過ごしました。特に中年男性社員のすさんだ心の様には、そういった耐性のあるはずの私もさすがに抗うつ剤を服用しながらの日々でした。そういう私は、3月末には(取締役ですので)失業手当もなく、失業する見込みなのですが、社員の行き先が決まるまでは自分が動くことなんてできません。そうは言ってもダメな社員はどうしてもダメでして、最後の最後まで行き先を見つけてあげられない人が残りました。
もちろん全員が自分勝手に走ったかというと、特に女性社員を中心に、こんな修羅場でも他人を気遣い、私に声をかけてくれ、膨大な整理作業を一緒に残業してくれる人もいました。その中には、結婚したばかりの私の部下の女性もいました。こういう時に頼りになる人で平時にチームを作らなくてはならないということをこの時ほど痛感したことはありません。
1月の正月翌週になると毎年、この時のことを何度も何度も反芻しながら、それからの人生を生き、そして「経営」に携わっています。もう2度と経営になんて携わりたくない。こんなにも多くの人を絶望に追いやった自分には、もう2度と携わるような資格はないし、そんな能力もない。その時にはそう思ったものですが、やっぱりその後も失業後に別の会社の役員を務め、今はコンサルタントという立場でお手伝いしているのですから、当時の「やられた」側の社員からしたら、勝手なものかもしれません。その批判には甘んじながら生きていく覚悟です。
1月の店長
その事件から15年前。私は上場家電チェーンの本社のMDでした。しかし、本社にいた2年余りの期間にやったことのかなりの部分は「閉店セール(改装のための閉店セールを含む)」とそれに続く「閉店作業」でした。全店の半分以上を占める旧大店法基準の150坪店を全部閉め、大型店に集約(大型店も決して業績が良かったわけではないのですが)するという事になり、その秋、そして年が明けて1月末にバタバタと小型店を閉めていきました。
1月末で閉店したのは、埼玉県の旧大宮市のはずれにある、とある小型店でした。店舗も小さく老朽化しており、しかも多層階でローコストオペレーションが効かない、今の私の立場的に言えば、「時代に合わない」店舗でした。30店あまりの店舗の中でも常に最下位争いをしていたその店舗の店長は、40前の店長陣の中では比較的若いが、利発という言葉からは程遠い、もさっとした感じの男性で、店長会議でいつも常務にどやされていて、「はい…」としか答えられない姿を見ていた方でした。
店が閉まれば、パートさんは契約が終了してしまいますが、社員はいったんは他店に異動になるわけで解雇されるわけではないのですが、それでも、「自分のお店が失格の烙印を押された」ことへの屈辱、反発のようなものはあるわけでして、完全閉店セール中の店内は、我々MD陣が中心になって、お客様への営業、店内の整理や清掃、閉店後の売り場の縮小などを行い、引導を渡すわけです。
また、不良債権問題で世間が不安に満ちているさなか、低価格指向がどんどん強まっており、閉店セールというチラシが入るや、当の店員の心情などどこ吹く風で、主婦層を中心に嬉々とした客が、今までどうしてこの店に来なかったのか?というぐらいに店に殺到し、寒い中、駐車場整理、そして、展示品のテレビの持ち帰りのお客様への積み込みのために毎日夜まで頭に湯気を登らせながら、売り場と駐車場を往復し、店が閉まると、今度は売る品がないということで、他店の不動在庫や旧型展示品を閉店店舗に自家用車(私なんか軽自動車でした)で在庫移動させそれを陳列して、全店の在庫を2月末の決算に向けて減らすのです。
長年自分たちの生活の場だった店のそんな利用のされ方に、プロパーの店員さんの心はすさむばかり。ベテランMDに空いた什器を分解するよう指示されると、外したパーツをコンクリの床に乱暴に落として、大きな音がお客様のまだいる店内に響かせても、上司含めて誰も注意できません。最終日になると商品と什器の減った店内はガランとして、あちこちの壁が見えてきて、テレビ売り場の後ろには、ロサンゼルスオリンピック時のテレビの商品のポスターがはがされずにいたのが発掘(当時でも14年ぐらい前の1984年のものです。)されました。(そんな管理だからそりゃ、店も廃れるは…)
最終日も夜になり、お客様も減り、店員は事務室やレジ閉めにかかった頃、先輩に言われて、通りを挟んで店の向かいにあった販売機に缶コーヒー20本を買いに出ました。すると、駐車場の出口に店長がいて、出ていく車1台1台に90度のお辞儀をしていました。私はそこを通って缶コーヒーを買いに行ってはいけない気がしてその場から動けず、店長の様子を見ていました。1台当たり10秒、15秒という時間、深々と頭を下げていて、次の瞬間、店長がよろけて前につんのめりそうになり、私はアッと駆け寄りました。
店長は、「大丈夫」とボソッと行ったきり表情も変えずにその場に立ち続け、私は、そこを通り過ぎてお使いの用事を済ませました。
寒い店外から店に戻ると空元気のMD陣(私以外はみな、超バイタリティな感じの人でした)、放心状態に近いプロパー店員。それでも雑巾をもって最後の清掃をするパートさんたちで店内は熱気に満ち、メガネが曇りました。ベテランMDが元気に「お疲れ様でしたー」と缶コーヒーを配ったときの白けたこと…こうなってしまうと、店員にとっては、「本社」は敵です。
そのあと、店長は何事もなかったように、事務室に戻り、最後の夜間金庫への預金に行きました。そのお店ではそれまで一度もなかったほど、夜間金庫袋に入りきらないほどの1万円札の量に店長が何を感じたのかはわかりませんが、「だったら普段から買いに来てくれよ」と20代の私は客に文句を言いたくなりました。
それから間もなくして、その店長は、他店に異動をせず退職されました。別に優秀な成績を収めた店長というわけではありませんでしたので、本社では誰も気にしていない様子でした、私以外は。
それから2年ほどたって、その会社は倒産しました。私はその閉店から数か月後に退職して、まったく異なるシステム開発の仕事に転職しました。私は幸運でした。脱出に成功しました。そして、あの店長も、空元気のMDの先輩たちも、最後まで責任を果たして、その会社とともに失業の海に沈んでいきました。
1月の夜
日本では、小売業は2月、一般企業は3月の決算企業が多く、12月が繁忙期である業種が多いことから、この1月という時期は、経営の変動が多く起きる時期です。多くの会社で4月以降の経営体制が決まるのもこの1月、2月でして、勝ちと負けがハッキリする時期でもあります。
店を閉める、会社を閉めるという判断が間違っていたか、というとおそらくはそれはその時点で最善の判断であり、経営にはその判断を行い遂行を完了する責任があったのだと思いますし、私もそうしたつもりです。
そして、私の能力不足を棚に上げて言わせていただければ、どんなに最善の努力をしてもそれでもなお、「一敗地にまみえる」時はやってきます。少数の勝者が多数の敗者を生むのが、私たちの経済システムなのです。そして、その敗者の気持ちを私のように何度も目の当たりにし、自分でも何度も味わったという人は、実は経営者の中にも、大企業の社員の中にもほとんどおらず、その痛みを知らないでいます。
その痛みを知ったところで何ができるわけでもありません。しかし、経営判断の重み、責任の重さというものを1月の夜の寒さを感じる度に私は痛感せずにはおれないし、それをまた経営に携わる人に知ってほしいと思っているのです。
そしてまた、そのような責任を負っていたとしても、命まではとられるわけではないし、再挑戦も可能であるという勇気も持っていただきたい。従業員を守らなくてはならないのと同じ重みで自分も守らなくてはなりません。
1月の夜の寒さを感じる度に、私はこの2つの出来事を思い出すのです。