いきなり長いタイトルで失礼しました。普段はこのブログでは、「中小企業に役立つ方法論を紹介する」ということに徹していて、社会批評や文明論はしないことにしているのですが、年末恒例振り返りシリーズということで前回、前々回とやや「大放談」させていただいております。前回はこちら
2回に分けて、「今年縮小が顕著になったもの」と「今年顕著に浸透が進んだもの」を私の視点から紹介させていただきました。なるべくコンセンサスが得られるようなよく知られたものを選んだつもりですが、それでも「自分の周りにはそんな事例はない」ということがある方もおられると思います。特に歴史ある大企業にお勤めの方はそういう感想をお持ちなのではないでしょうか?
「非常時のマネジメント」が試された
1回目の冒頭に、私は、今年のコロナ禍について「戦時中とはこのような感覚だったのだろうか?」と物騒なことを書きました。そして、今年の激変期をかじ取りする経営リーダーは、そうした「非常時のマネジメント」を強いられたのだと思います。平時は小幅な修正をしながら市場の動向を見極めればよかったものが、非常時には大幅な転換を強いられます。それは戦略と遂行策の立案という面でもハードですが、同じ場所に留まろうとする大多数の社員に対して「至急、あっちの新しい安全地帯に駆け込め!」と指示してやらせる遂行マネジメントにおいても、平時とは全く異なる「強さ」が必要になります。全体を救うためには遅れた人は見捨てることも必要です。強引で強権的であっても仕方がないと思います。それが非常事態下での急激な環境変化に対する経営の責任なのです。
乱暴ではあっても果断に、早期に変化への対応に舵を切ったところに幸多からんことを祈るのですが、実際の経済は、進むも留まるもどちらにせよ地獄です。これが今の「需要が縮小する社会」に生きるものの宿命であり、しかも進む人は常に少数派で、留まろうとする人、見たくないものを見てみないふりをする人が圧倒的多数派です。それが、「自分の周りでは実際には起きていない」という感想の示すものです。つまり、みんながその方向に少しずつ進んでいるのではなく、少数派が走ってそこへ進んでいて、大多数は何も変わろうとしていない、あるいは変われないでいる、それが皆から見える変化の断面図なのです。今年はその状況がいつも以上にはっきりと見ることができたように思います。
しかも、その「変わろうとしない人」は多くの場合、すでになんらかの強さを持っていて、変わらないでも依然として収益を一定範囲あげられる(だから、変わる必要に短期的には迫られていない)場合が多いです。それは、顧客もまた、一気に行動を変えるわけではなく、先行して変化を受容する層、アーリーアダプターから少しづつ少しづつ変化は起きるからです。変われば生き残れる、というほど単純ではないのも事実です。
変化は透明な水に落ちた一滴のインクのように起きる
今年のような非常時でなくても社会は常にゆっくりと、しかし着実に変化しています。結果として10年間に起きる変化を我々は過小評価しています。(この言葉はビルゲイツの言葉を借りたものです)
今から10年前の2010年は、中国のGDPが日本をついに追い越した年でした(ついでに言うと、鳩山由紀夫内閣が退陣し、菅直人が総理になった年です)。今年、中国のGDPは日本の3倍を超える見込みです。また、10年後には中国のGDPはアメリカを超えている見通しです。あるいは、10年前はJALが年金債務や政治的思惑で維持させられた地方路線の高コスト体質があだとなり経営破綻した年です。その後、JALは稲盛和夫氏の総指揮下で収益力を回復し、今また新型コロナウイルスの影響で危機に陥っています。
また、10年前はスマホといえば、iPhone3GSの時代、日本ではソニーエリクソンのエクスペリアが人気がありましたが、まだまだガラケーの方が新規でも数が圧倒的に売れていた時代です。
変化はすでに始まっていて、その時にも、「短期間に中国の経済的な存在感は日本を圧倒する」ということは予測されており、中国で売ること、中国で作ってアジアで売ることに取り組んだ人はいました。また、いずれ全部がスマホになり、ガラケーは作られなくなり、その世界ではそのころのPCと同様「世界規模での調達」ができ、原価低減できる数社だけが生き残ることは十分予測されていました。それでも、それに対応して発展した人と、そうではなかった人に今になってみれば大きく分かれてしまっています。そして、これから10年もまた、同じでしょう。
変化は市場に広くまんべんなく起こるものでもなく、皆が一様に同じ速度で同じタイミングで始めるものでもありません。大きなボウルにインクを一滴垂らした時のように、ほんの一部で強く変わり、それが静かに全体に浸透していきます。それが一滴一滴と毎日、毎秒落ち続けているのです。ある日、ふと気づくと透明だったはずの水は薄く色がついていて、やがては向こうが見えなくなっているのです。
やがて来る「戦後」のために
来年の大河ドラマは渋沢栄一が主人公です。彼は、日本最大のシリアルアントレプレナーにして、政商にしてソーシャルベンチャーでもあったわけですが、そんな彼が活躍したのは1870年代~1900年代。明治維新から西南戦争の動乱ののち、明治期の急速な日本の近代化と日清戦争、日露戦争の時代の「経済の仕組みづくり」こそ彼の功績です。そんな彼の心意気を表現する「論語と算盤」にいはこのような有名な言葉があります。
事柄に対し如何にせば道理にかなうかをまず考え、しかしてその道理にかなったやり方をすれば国家社会の利益となるかを考え、さらにかくすれば自己のためにもなるかと考える。そう考えてみたとき、もしそれが自己のためにはならぬが、道理にもかない、国家社会をも利益するということなら、余は断然自己を捨てて、道理のあるところに従うつもりである。
「論語と算盤」より
本当にそれは、あると誰かのためになるのだろうか?それを提供すると、世の中は改善するのだろうか?便利になる。楽しくなる。トラブルが減る。子供が自分もやってみたいと思ってくれる。本当にそのために仕事をしているだろうか?弊社がお手伝いするかどうかを最後に決める基準は、その点を社長がバランスよく認識しているかどうかという点です。投機や情報弱者を食い物にして高くつかませるような売り方は排除したいと思っていて、お手伝いすることはありません。
新型コロナウイルスの感染拡大が続いており、経済的には一部の産業を中心に焦土が広がりつつあります。しかし、戦後は必ずやってきます。そして、大きな変化がそこでは起こります。
明治維新期や戦後の復興期のようにたくましく、新しい価値を打ち出していくことがまた日本には必要な時代を迎えつつあるのです。来年はそのようなことをより強く打ち出して皆さんのお仕事をお手伝いしていきたいと思っています。
来週からは元の方法論の説明に戻ります。