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中国トンでも事件簿~中国で建物を売却する~

中国で私が総経理をしていた会社は寮を4棟150室(うち、3棟はフロア所有)、オフィスというか工場を1100平米×3フロア所有し、そのほかに調理場を別に借りていました。寮母(アーイー(おばちゃん)と皆に呼ばれます。)は3人、調理人は11人(一日3食ですから)直接雇用していました。これは3交代500人体制を前提としていて、地方から人を大量採用し、住居と三食を提供する「華南モデル」と言われた中国の改革開放路線の中で多くの企業が採用した方法でした。しかし、寮、オフィスといってもとてもオンボロです。土足文化ということもあり、土地柄もありとても土っぽいですし、パーツがそれほど良質ではないので、木製ドアはすぐに合板がはがれてきて壊れるし、壁はぼろぼろと剥がれがち。それが当たり前と言えば当たり前なのですが、彼女たち(90%以上女性)にもう少し文化的な暮らしをさせてあげたいというのが私の赴任中の念願でした。

特に私が目標として公言していたのは、「寮に温水シャワーをつける」ということです。亜熱帯とはいっても冬は朝晩は15度ぐらい、ときには10度以下まで下がります。その中でバスタブはもちろん(バスタブは私のマンションにもありませんでした。)、お湯がでなかったのです。これらの設備の見積もりを取ると1か所あたり100万円もあれば改装できるの(全部で7か所ある)で、1か所づつ順番にやればできるのですが、施工には日本側の許可が必要です。そして、日本側は生産コストをアップさせる要因だとして非常に頑強に認めてくれませんでした。

以前お話した「中国の子会社の社員は仲間ではないのか?」と私が社長に楯突いたのはこの時の話ですが、余計に日本側親会社の社長の「あいつのいうことは一切きいてやらん」という態度をかたくなにしただけで結局私が退任しその親会社からも去ることを速めただけでした。

 

そんな日々の中、深センでも2番目に古い工業区だったのですが、その水貝工業区は急速に移り変わりつつありました。私が赴任した当初は工業区は朝鮮人参の工場や日系の自動車修理工場、あるいはお菓子(老婆餅)の加工工場などいろいろな業種が集まっていたのですが、市政府も産業の高度化・高付加価値化を目指し郊外部ではソフトウエア産業などを集積する一方、この工業区は、ある有力者の影響力で「世界一の宝石加工の集積地にする」という決定がされ、新聞にそれが発表され、それから数か月のうちにどんどんと「○○珠宝」(中国語で宝石の意味)という看板が増えていき、大通り沿いには、デビアスのお店が出来たり、ジュエリーデザイナーがデザインショップを出したりという動きが急速でした。汚かったビル群がパンチボードや装飾板で覆い隠されていき、みるみるうちにきれいになっていきます。

私や副総経理は「きっと何かが起きる」と不安でした。市政府の公式の発表は、「工業区への新たな入居は、宝石産業以外認めない」というものでしたが、これは表の話できっとそうではない、追い出される、という気がしていたのです。それもあり、「もし移転するとしたらどうするか?」の調査も開始していました。もっとも、それはそれで前向きにとらえていて、「優秀な人にだけ移転時の手当てをして残留をお願いする」「よりきれいな寮、食堂を用意することで社員の環境も改善する」ということが実現できると思い、郊外の日系企業の新しい寮、社屋を見学に行ったりしていました。当時、親会社の方針ですでに操業規模は最大時の半分以下の230人程度に縮小していました。

 

実はこの親会社には深センのほかに上海にも同じような機能を持つ生産子会社がありました。深センには大規模な寮、食堂などの設備があり、上海にはありませんでした。そのため、深センは比較的固定費が大きく、稼働率が利益に大きく響く構造であり、上海は比較的規模変動に強い構造でした。人件費水準や生産性、品質などは大きく変わることはなく、規模を拡大すれば深センが平均コストで有利であり、縮小すれば上海が有利でした。その中で起きていたのは、親会社が業務を縮小すると深センは平均生産コストが上がっているという結果でした。それに対し、「限界費用」で比較し、2拠点の生産規模の最適分配点を今後の業務量ボラリティと合わせて決める、というのが正しい対応なわけですが、当時の日本の経営者は「深センの方が一人当たり平均コストが高いから深センを縮小する」という経営スキルしかありませんでした。これをやると固定費が残った人員にさらに賦課されさらに平均コストは上がっていきます。それをいくら説明しても、「聞きたくない」という態度がかたくなであり、さらには、「あいつは日本に隠れてどんどん中国人の費用を上げている」と社長に言われだす状況になってしまいました。こういう人にグラフを書いても、モデルケース例を作成しても、「自分に歯向かう」という受け取り方しかしないので現地幹部にも言えずに遠く中国で一人、とても孤独な気持ちを抱えていました。

もはやこの経営者の元では、深センの保有資産を生かした経営を行うことは無理である、と諦め大幅に余剰になった寮を半分以上売却し、食堂を外注化して固定費を圧縮することを決断することとしました。寮は工業区に相談に行くと、すぐに買い手が見つかりその経営者が面会に来てくれました。私も当時は30代でしたが、同年代の丸刈りの精悍な若者で、靴はGUCCI、モンブランの万年筆でサインするような人でした。寮は、1986年に買った時の値段の20倍で売れました。ちなみにその寮の土地の使用権は一部を除いてあと4年で切れる、という状況だったのですが、その宝石商の経営者にそれを念のため説明すると、「問題ない」と言っていました。実際、土地使用権は、25年延長されました。中国で改革開放路線が最初に始まったころは、土地の使用権は30年が多かったのですが、その後は50年、最近では都市部の住宅では70年、というケースも増えています。そして、使用権を延長するルールというのは公式には存在していませんでした。しかし、市政府と親密なその経営者はいとも容易にこれを延長することができたのです。とりあえず、売却益の一部で残りの寮の修理できないでいたドアや窓などを一斉に修理しましたが、念願の温水シャワーは稟議を出せる状況ではなかったのは上の通りです。

 

そして、やはり、というべきかそれから少しして「大通りに面した建物の1階は宝石のショールームに使うことが望ましい」という通達文が工業区から発行されました。工業区は「上層部(市幹部)の意向」と暗に副総経理に伝えてきていました。工業区内の大通りに面したところにある私の会社の建物だけが最後まで外装の修繕がされていませんでした。他の建物は、建物は私有物であるにもかかわらず、工業区の予算で美麗化が急ピッチで進んでいたにもかかわらず、です。そして、またあの若い経営者が当時の中国の富裕層がみんな乗っていたポルシェカイエンで現れ、私の部屋に入ってきて表情を変えずに言うのです。

「総経理、私の島に一緒にいきましょう」

えっ?あなた島もってるの?

 

もう意図は明らかでした。1階をいい値段で売ってくれ、ということです。そして、それにあがらったら結局あらゆる手段を使って追い出されるだけ、ということもわかっていました。その3か月前から消防検査では「避難路のドア幅が基準に満たないから使用禁止になる」という文書が届きました。(もともと工業区が1984年にこの建物を作った時にはそんな規定はなく、本来ならばこの規定は遡及適用されないはずなのですが、そんなことを言ってはならず、「社員の安全のため迅速に対処します」と言わざるを得ないわけです。)地方税務局からは、「固定資産税の「1階の」評価額を3倍にするための調査を予定する」、という回りくどい文書が届いていました。すべては、くみ上げられたシナリオだったのです。

 

一階を売却し、外注化したお弁当を食べるスペースを3階に上げ、大講堂を廃止しても問題ないという結論を副総経理と迅速に出し、日本側に文書だけメールし電話はせず、週末はその「島」へこわごわ赴きました。すると、海岸からは白い立派なボートで島へ着き、そこには白い屋根の「南国リゾート」、以前は北海道に行くツアーの旅行添乗員をしていたというその経営者の秘書(兼愛人)以下数名の「ビキニ美女」の接待攻勢。妻帯赴任の私は、会社の言質と家庭のリスクの両方でリゾートどころではない緊張の時間でした。その数名で小さい島と白いビーチを独占し、ビーチの隣り合うデッキチェアで特別な50年物マオ台酒(これがまた、普通の白酒と異なり、ワインのような豊穣な香りがするんです)をゆっくり飲みながら、その経営者と話を中国語でするんです・・・

「私は中国の宝石産業を世界一にしたい。そのために優れたデザイナーと販売員と工員をたくさん集めたい」「あなたの夢はなんだ、総経理。私に協力させてくれ」

私は、日々を必死にこなしているだけで正直夢なんて、24歳以降ありませんでした。そして、私が言ったのは、

「私にはあなたのような立派な夢はない。今は工員たちの寮に熱水器をつけて上げたいと思って日本側を説得するのが一番大きな私の仕事」苦しまぎれに言った私の言葉に、彼は思わぬ大きな反応をしました。

「そこまで工員の暮らしのことを考慮している経営者と知り合えたことは深センに来て一番の喜びだ。あなたは日本人だが友人だ。」握手、乾杯、乾杯、乾杯…

いや…そういわれても…

そして、本題

「1階を私に売ってください。」「建物の改装を3階、4階含めて私の費用で実施します。」

ここで日本側に相談して、というような日本人総経理が誰からも信用されないことは私はよくわかっていて事前に調整済みでしたので、その場で

「わかりました。日本側には私が責任もって調整します。」

そして、出てきた調印式一式…そんなことだろうとおもって、私も愛用のモンブランマイスターシュトゥックをその日はもって行っていました。それを出したときにその経営者もすべてを我々が察して準備して諦めてこの場に来ていたことを理解し、自分の完勝を確信した様子でした。この事件がなくても、その経営者はとても魅力的な人でした。ただ、携帯電話で誰かを叱り飛ばすときは、堅気とは思えない迫力でしたが。

 

それから1週間後には、億の単位のお金が振り込まれ、1階のボロボロの机類を排出して20年以上も使っていたオフィスを明け渡しました。2か月後にはりっぱな宝石のショールームが出来上がり、大通りから歩いて下って入るような豪華絢爛な店ができ、約束通り、私たちの入居する3階、4階にもエアコン室外機と古びた窓を隠すきれいなカバーが設置され、外壁も真っ白に塗り替えられました。1階のオープン時には私も妻と一緒に来賓として招かれ、居並ぶ美女店員の「歓迎光臨」の大合唱を受け、安くするから妻にプレゼントするとよい、とその経営者に言われましたが、いかに安くすると言われても私の給与で簡単に買えるものでもないし、「デザインもちょっとごつい、好みではない」と、怖いもの知らずの妻が言っちゃいまして…そうしたら、主任デザイナーが呼ばれて「日本人の友人がこう言っている。学習しろ」とその場で叱るのです。そのデザイナーさんも「資料を取り寄せます。」とその場で言わされていました。

 

それから一年とたたず、いろいろなことがあり、私は帰国することになり、かつて私の机があったあたりの1階の彼の部屋に挨拶に行きました。彼は、私を食事に誘い、また50年ものの白酒をふるまってくれ、中国の古銭を集めたパネルをお別れにプレゼントしてくれました。そして、寮には一台、熱水器が届けられました。

私の力では実現できなかった私の夢を、一部だけでもかなえてくれたのは、あらゆる政治的圧力で私を圧倒し翻弄した彼でした。ちなみにその古銭セットはあまりに貴重なものが含まれており文化財として中国国外に持ち出すことが出来そうになく(税関で没収される)、私が気に入っていたウブドの絵と一緒に会社に置いてこざるを得ませんでした。

私の会社は日系でどうしても政治には弱く、こうした流れにただただ翻弄されるばかりでした。そうして負けたわけですが、どうせ負けならいい負け方をしたのかもしれません、会社としても、私個人としても。

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