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汎用機廃止プロジェクト

2002年の夏、データ処理を行っていた汎用機と専用線を廃止し、PCベースとインターネットに切り替える作業を担当することになりました。それまでシステム開発課の役職者だったとはいえ、ネット系の地図システムの開発と販売体制の整備をしていた私にとっては結構晴天の霹靂でした。ただ、未経験のままシステム開発に転職した私は99年には、会社にプロジェクトマネジメント系の研修に10日ほど出させてもらいPMPを取ったりしていたのと、経営者に楯突くような発言を平気でしていたのが目に留まり、これまで何度もその会社で課題に上がりながら誰も成し遂げられなかったプロジェクトの責任者になりました。

40年あまり運用された汎用機で運用されたプログラムは30万本、保存されたMTは3万本(ビルの1フロア全部)、その会社の売り上げの8割以上が汎用機経由で、テープカードリッジで月次スケジュールで出荷され、クライアントは大手ノンバンク系金融機関を中心とした数十社であり、もし出荷が停止するとすぐに会社は息詰まることは明らかでした。とはいえ、その前2年間で、大きな赤字を計上し、支社の廃止や人員の削減を行ってもなお、改善しない収支を改善するには、あわせて年3億円以上がかかっていたこの2つに対処しなければならないことは明らかでした。また、実は汎用機が速度が速いというわけではなく、PC化すれば1週間かかっていた納品処理が半日になる、ということも、私の上司だった中国人技術者の実験で明らかになっていました。

実は、このプロジェクトは、COBOLの経験や汎用機のオペレーションの経験のあるもう一人の先輩と二人で始めたはずだったのですが、始まって間もなくその先輩が入院されてしまい、実質一人で実施しなくてはならない状況になりました。もちろん、すべてを私が書いたわけではなく、基本データの制作部分は上の中国人上司を中心とした中国人開発勢が分担し、その基本データを加工し出荷、配信するという部分を私が担いました。

結果として、4月下旬にプロジェクトを拝命し、10月には完全に完了しました。費用は月3億円が、3万円(回線代)+8万円のパソコン10台程度を運用という形になりました。データエラーは一件も起こりませんでした。速度は、20倍程度になりました。冷房の効いた汎用機スペースは廃止され、訓練の必要だった熟練オペレーターは、入って間もない女子社員が画面をクリックするとデータ生成され、自動で確認まで行う仕組みになりました。会社は一気に黒字転換しました。ただし、これには仕事が実質不要になり、新しい仕組みで価値が提供できない汎用機オペレーターや汎用機プログラマが大量に自主退社してしまった、ということも寄与しています。

これが実現できた理由はいくつかあります。代表的なものを上げると
1 移植作業に「内容がわかっている」社員を使いませんでした。
もともとこの人たちができない、と言っていたプロジェクトであり、そのできない理由は気概と知識の問題でもあると思っていたので、社内人材ではなく、10百万円(最終的には12百万円になった)の外注で実施することとしました。また、汎用機の納入を通じて経営に大きな発言権を有していたF社系代理店がかく乱要因となることを遮断する目的もありました。

2 データ配信と出力業務は廃止する決定をした。
データ配信は2社のために大きな費用が掛かっており、しかもそのうち1社は実はつかっていないのにずっと運用し請求し続けていることが分かった。出力は売上は数千万円規模があったが、大型プリンタのカウンタ料と出力量当たりの売り上げを比較すると逆ザヤになっていた。これを廃止し顧客に返上する対応をとった。うち2社はかなりの大企業であり誰もやりたがらなかったが、実は契約書に終了を申し入れられる条項があることが、いろいろ調べたら初めて判明し、文句をいうクライアントをよそに断交しました。これにより、売り上げは6%程度減少した。しかし、むしろ利益はやめただけで改善しました。

3 今納品業務があるものに使っているプログラム以外は移植しない決定をした。
いつ使うかわからないし、改変しながら使うというCOBOLエンジニアの習性を断ち切り、必要になったら0からオープン系で作成すればよい、という立場に立ちました。

4 移植はC言語ではなく、COBOLのまま行い、PC-COBOLへプログラムを移植するプログラムを開発した。
この技術採用により、何を行っているプログラムかを解読しなくても、インプットとアウトプットが一致していれば合格とすることでスピードが大幅にアップしただけでなく、バグの発生する箇所を限定し、文字コードの差異などに検査個所を限定していくことができました。

しかし、これだけのドラスティックな考え方を30歳そこそこの私たち技術陣は当然のことと思っていましたが40代を中心とした10年以上も機械とお客様に向き合ってきた汎用機エンジニア側は当然「誠意がない対応だ」と、大騒ぎで反発しました。そして、60過ぎの経営陣は私たちを全面支持してくれ、革命は半年余りで成立しました。
今、「革命」という言葉を使いました。革命を起こされた汎用機エンジニアのことを考えなかったわけではありません。営業同行でSE業務をやることや、地図関連の業務の講習会の実施などの手当ては行いましたし、新規業務をPC-COBOLで開発できるよう受注に努めるよう営業部にも要請し私もノンバンクへの営業に行ったりもしました。しかし、1年とたたずほとんどのエンジニアは退社してしまいました。人はそう簡単に変われるものではない、ということ、そして、賢いといわれるものが「改革の杖を振るい上げる」ことの怖さ、重みを痛感する出来事でした。

10月の連休に、ビルの4階の大きな汎用機室から前面道路を封鎖して止めた大型クレーンで汎用機が搬出され、ぽっかりと大きな空間ができたのを見て安堵とともに、自分は会社は救ったかもしれないが、人を救ったわけではないということがわかりつつあり、「勝利」とは何か、と自問自答したことを昨日のように覚えています。

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