私は日本を貶める気も、盲目的に礼賛する気もないのですが、日本企業の意思決定の弱さ、いい歳した大人が無思考に追従する組織の在り方というのは国益を大きく損なっていると思っています。そして、なぜそうなるのか?という点は、そのような人間を再生産する仕組みを家庭や学校が運営しているからであり、それはなぜか、というと論理的に検証反論することや意思決定自体の訓練や、そのための情報収集と分析、比較という基礎的プロセスについて学校やその後の職場で学んでいないから、ということに帰結すると考えています。
同時に、それぞれの分野での専門的知識を有さなくても仕事になってしまうことを許してしまう程度の採用や人事評価にも問題があると思っています。私は、一時期地図に関連するプログラム開発の担当部門にいたことがありますが、測量学も、三角関数も知らない人が普通に仕事をしていて、以前誰か(中国人技術者)が作ったプログラムを理解しないままに適当にいじってトラブルが起きていました。これをみて、「それは問題だ」と思えましたか?
今年はそんな日本を象徴する事件がスポーツ界でたくさん起こりました。忘れていませんか?日大アメフト部の内田元監督、体操協会の女子強化の塚本夫妻、日本ボクシング協会の山根元会長…ワイドショーをにぎわせた面々も、早くも年の瀬とともに忘れ去られようとしています。ただ、会社に長く務める方と、テレビでこれを見る主婦層、それも高齢層とでは全然受け止め方が違うようです。義母の家で一緒にテレビを見ているとそれを実感することがあります。後者はただ単に、「ひどい人がいたものね~」とテレビと語り合っている。前者は私含めて「これ、日本中にある問題」と思っている。皆さんが会社に勤める若い人なら、これに同意でしょう。
そして、あなたが経営者であり、そうは感じないとしたら…とてもいいか、とても危険かのどちらかです。
■スポーツ不祥事の構造は
この問題の正体は何だったのか?問題が起きて以降、時々考えていました。だいたい整理するとこんなところだと思うのです。
今ではだいぶ減ったように思いますが、こういうとんでもない経営者というのは昔は日本の会社にもたくさんいました。私も一言多い習性が災いし直接そういう人たちの逆鱗にわざわざ触れてきてしまいました。日本の40代以上のサラリーマンはその非合理性に耐えて生きてきてようやく自分がいい目をできる番、と思いきや、そんな時代ではなくなっていました。それが、なつかしさとともに、テレビの向こうで「スポーツ界」という切り口で再浮上しているだけです。
ただ、「世の中変わってしまった」と嘆ける人と、そうではなく、「世の中が間違っている、自分が正しい」と思い込む人の差がどこになるのか?私が仕えた上司でも後者の人がいましたが、そこには、「勝負師」的な感覚というのが影響しているように思います。よく言えば、「自分を信じる」。悪く言えば、「学習しない」。紙一重の実力の差の中で結果を出そうとするアスリートにとって、「自分を信じる」ことは欠かせないことなのかもしれませんが、そこから離れられない人は組織のトップにはならない方がよいのかもしれません。
■スポーツ界が特殊な例なのか?
こんなことはスポーツ界だけ?とお思いですか?もう一つ別の例を挙げると、夏ごろ、三菱自動車の益子会長がプレジデントオンラインに寄稿された中で、「若い人はメールで職場が殺風景になることに危機感がない」「オフィス内での風通しを良くするために(健康のためではない)、上下階の移動にはエレベーターではなく階段を利用するような新ビルにした」「直属上司を飛び越えて、役員や部長に直談判するのは、秩序が乱れてよくない」と書いていました。これを見て、ネット界隈に若い人は、「さすが三菱財閥、言っていることが30年遅れ」と揶揄する声が多くありました。
でも、私が知る旧財閥系の企業なり、そこで求められる人物像というのはまさしくこれであり、三菱グループの要職を歴任してこられた益子氏にとっては、「これが日本の大企業の正しい姿」と信じ込んでいるのです。そして、日本を代表する秀才たちが就職先として選び、終身雇用(三菱グループはいまだにかたくなにそう)で身をささげ、そのような思考パターン、行動様式を叩き込まれているわけです。しかし、このルール、通用するのは、世界中で日本の丸の内近辺しょうが、もしベンチャー的な会社にたとえば出向して、こんなルールを適用しようとしたらそれ以降何も参加できない村八分状況に置かれることでしょう。
ルールはたかだか30年ぐらいでガラリと変わっているのです。より透明性と説明性をもち、より自分と相手の負担を減らす形になり、その中で技術的進歩や新しい知見を取り込む形で社会は変わってきているのです。日本は遅れているとか言われますが、それでも若い人、ベンチャーを中心に、海外の流れにキャッチアップし対抗する形で変わってきています。弱いものはそれを受け入れ変化しなければ生きて行けず、かつて強かったものは、自分の強さを守り通そうとする。そして、恐竜は滅び、哺乳類は生き残った。生き残るものは強いものではなく、変化に対応したものである。それが2018年のスポーツ不祥事から見える本質だったように思います。
スポーツ界でも、伝統の企業駅伝中心のトレーニングに従わず自分の方法論を追求した若者が今年は日本記録を更新して協会を喜ばせたり戸惑わせたり、という既存の日本ローカルの枠組みに従わず、世界で戦う、というチャレンジが実を結ぶ事例が見られました。
世界のライバルはどのような組織、どのような方法で強くなろうとしているのか?それを学び受け入れることはとても勇気と勉強の必要なことです。しかし、それこそが、守旧勢力を駆逐し日本を変える第一歩だと思うのです。