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東大卒を採用すべきか?

 これも、このブログを始めた時から書きたかったテーマだったのだが、3年以上たってようやくアップすることになった。結論を行ってしまえば、「人による」ということになるのだが、それでもこういうタイトルを書くのにはいくつもの理由がある。

 ご存じない方のためにいうと、代表の私自身東大卒、それもかなりの勉学熱心派だった。(そして、大学院中退である)そして、今、私が中小企業の経営者であり、応募してきた大学4年生の私を採用するかというと、「絶対にしない」。

 実際の私は、高卒社員がかなりの割合を占め、もちろん彼らが第一線で立派な数字を作っているような「中小企業」を数社渡り歩いてきて、その多くで、営業に近い現場にいた。後塵を拝する、というか塵埃をかぶれないぐらい差をつけられたこともあって、そこを嘘を言うつもりはない。ただ、「チームの実績」という点ではそこそこいい線を続けてこれたのも事実である。
 同窓生を見てどうか?というと、かなりの割合が「成功者」として歩んできている。ただし、それは「官僚」や「大学人」、そして「既得権益で収益力が盤石な大企業で」である。

 しかし、このブログの視点である中小企業の経営側から見ると、「使えない東大卒」論は強くあるし、実際、その事例も結構目にしたし耳にもした。私もそれに負けないよう売るしかなかった。

 それにはちゃんとした理由があると思う、というのが今日の話である。

 

1 大企業ならばプロフェッショナル人材の居場所もあるものだが…

 M&Aや多様な資金調達を行う大企業ならば、それらに関する専門的知識を持つ部門リーダーが必要になる。それは、一度知っていれば通用する、というものではなく、最新の理論と、市場動向を常に勉強してフォローアップし、そして自社での実施のための周辺の制度整備や分担指示などが必要になる。こういう専門性の高いポジションに、東大院卒の学習能力が高い専門家を配置することは結構重要なKSFである。彼らは言語化能力も高く、たくさんの要素を考え合わせることもできるので、こうした「配置案の作成」「ドキュメントの作成」「新情報の収集」には高い能力を発揮するのである。

 しかし、多くの中小企業では、こうした専門性は必要とされない。そういう人材がいたとしても、経営者がそれを理解できないし、自分の会社の選択肢に関係があるという理解すらもないので、結局ただの高性能な事務屋としてしか使えない。その上、「一言多い」中途半端な現状批判や改革案を言うと煙たがれる。それならば、最初からそんな人材は採用しないで、「言われたことだけきちんとやってくれる」パソコンをちゃんと使える事務員を採用すればよい、というのは批判ではなく、組織の運営上はその通りであると思う。

 ちなみに東大卒であっても、文系でも理系でも4年卒(大学院卒ではない)では、実務に対応できるだけの専門知識は全く身につかない。その専門性は、大学院進学が必要だし、4年卒は、「学習力の高い人」という程度の評価でとるしかない。

営業の現場にて

 中小企業はもちろん、大企業でも東大卒を営業に配属すると、うまくいかないことが多い。うまくいくのは、テニスサークルや大学横断型のグループでリーダーをしていた「ぱーりーぴーぽ―(party People)」だけである。商品の理論背景やマーケット動向を理解し、理路整然と10分間発表できる人材よりも、「うぇーぃ うぇーぃ 」言っているノリのいい若者が最初の30秒で「魅力的だ」と思われる方が売れるのが現実である。もっとも、魅力的だと思われたあと、普通の説明すらできない能力の者(それが世の中には大卒であってもいくらでもいるのも事実なのだが)はもっと困るので、ある程度の学習能力と論理的な思考力は必要なのだが、それが東大である必要はまったくない。
 そして、一人で孤独に精緻な資料を個々の顧客向けに再作成しているような者よりも、同僚の異性にも慣れ慣れしく迫り、上司を持ち上げ見かけ上の忠誠を元気に誓っている人間の方が組織の支援を暗に陽に受けられる。

 それを「プロフェッショナルな環境ではない」「海外の大手はそんなではない(いや、私が知る限りこれは概して人間集団の真実なのだが)」と批判するのは簡単だが、現実の日本の企業社会は変わらない。もちろん、ノリだけでは、だんだん歳をとってくると「ただの軽薄野郎」でしかなくなり、「信用できる」という要素が重みを増してくるのだが、それも学力とはあまり関係がない。滲み出す人間性はむしろ、東大卒にありがちな「エリート意識」とは真逆の「他人への尊敬」や「自分の平凡な」などの自己認識から生まれ、その点でも東大卒は不利である。時々、大企業や官僚の道を歩んできた同窓生と話すと、この点で中小企業の営業現場を歩んできて、むしろ東大卒が足手まといでしかなかった自分との意識の差を感じることが多い。そして、世間の東大卒エリート意識批判がかなりの部分当たっていることを痛感する。

 実際、どんな人間が営業の現場で数字を作って来れるか?というと、「めげない」「恥を恥と思わない」「声が大きく元気」「笑顔が魅力的」「話を聞くのが上手」「相手を肯定する」など、「相手よりも自分が優秀」と思っているような人ができないようなことが多い。資料が立派な人でもないし、たくさんしゃべる人でもない。「愛されキャラ」であることは、冗談ではなく中小企業で成果を上げる重要な要素である。
 そして、こういう人が社外だけでなく、社内でも支持され仲間を集めて実績を上げていけることが多い。

 すべての東大卒がダメ、というわけではないが、ダメなケースが相当多い。

では役職者、幹部になら使えるのか?

 では、よくある採用理由の「将来の幹部候補」というのは正しいのだろうか?高性能な事務員として活躍するということはあるが、組織の長として大成するか、というとそれにも私は次の二つの点から懐疑的である。
 一つは、組織の長とは、「集団を巻き込んで実績を作れる人」でなければならない、という上の営業人材という点でも述べた点にある。

 もう一つは、「ビジネスに必要な判断力」というのが、「常識・良識」とも異なるし、「人にどう思われてるかを気にする」という点から離れなければならないものであるからである。その中で、東大卒は私から見ると、強く「こうあるべき」という点に自縄自縛であるケースがみられる。将来の数字のために、世間の常識や過去のやり方を捨て、「突飛なこと」をやらなけれならないことや、一定の確率で失敗を受け入れそれを認めつつも適当にごまかしやり過ごしながら、大きな成果を引き寄せる豪胆さが必要なのであるが、それは自分の不完全性を知ることに近い。

そして、「成果に向けて自分勝手になれない」「嫌われても言い切る」「自分が決めて周囲を説得する」というリーダーシップがトレーニングされていないと、「ただの評論家」である。誰もが納得する、満足する選択肢などなく、何かをすれば誰かが損をし、嫌な思いをし、特に反抗し離反する。そんなことを気にしていては自分が持たない。そのような摩擦も結合も強い人間関係を苦手としている「予定調和」型の人間はリーダーに向かない。

 そして、最も困るのは、「自分ができればよい」や「自分ができることを他人にも仕組みとして要求する」という行動にリーダーとして出ることである。自分の事務処理能力が高いので、それでよいと思っているのだが、実際には部下は「わかったふり」をしているだけなので、成果があがらないだけでなくトラブルを抱えるし、トップの事務処理能力が組織の前進のボトルネックになる。

 改革の初期にはそのような独断専行が必要になる場面もあるのだが、多くのケースでは「誰もができることをやらせる」「誰もが理解できるように説明する」ことが大事なことで、そのためには、やることを半分にしなければならないことが多くあるのだが、それが「東大卒」には許せないのである。

 私が東大卒だとわかると、取引先の東大卒や同級生に「世の中の企業や社員がいかに知的レベルが低いか」への憤慨へ同意を求められることが過去25年で何度もあった。そして、その「エリート意識」こそが最大の失敗の原因である。

 中小企業の現場では、「売ったものが偉い」以上の真実はない。そして、「目の前の市場の生の声」以上の真実もない。そのことをわかって汗を流せるものではない東大卒を中小企業の前線戦力として採用することは全くお勧めできない。

 

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