何も知らないで中国へ赴任、あるいは出張した日本人はよく言います。「中国人はみんな喧嘩口調で話す」「中国人は無愛想だ」
あるいは、「どうも自分は中国人に受け入れられていない。みんなそっけない」と悩む中年の赴任者にもあったことがあります。あなたが何を彼らにしたかは知らないが、たぶんいいことも悪いことも何もしていないのでしょう?
多くの国で働いたことがあるわけではないのでどちらが多数派なのかは正確にはわかりませんが、日本では職場で「常に優しくにこやかに」していなければならない、と思い込んでいて、そこがストレスになっている日本人のなんと多いことか…中国人や私の知る限り他の国の人もそんな風には思っていません。もちろん、どの国でも職場での「礼儀」はあります。中国でも職位が上の人に対する礼儀はきちんとあります。しかし、それは「ニコニコと応対」ではありません。私は、中国で社外の親友(以前ご紹介した宝石商の社長)に言われたことがあります。
「なぜ日本人はいつもニヤニヤしている?」
日本人が思っている笑顔は「ニヤニヤ」であり、なんだか卑屈でかえって信用できない印象を与えていると、日本では「無表情」「愛想がない」と言われる私に話してくれました。では、中国人は皆職場で笑わないか?というと、目があうとニコッとしたりはするわけです。これは私が知る限りでは他の国でも共通のコミュニケーションスタイルです。そういわれると今度はうかつに笑えなくなってしまいますが、それが中国の「会社経営者」の姿でもありました。
礼儀はある、と言いましたが、それは役職が上の人の前ではきちんと起立して話すとか、作業中に声をかけると、手が止まるまで少し離れて待つ、とかそういう立ち居振る舞いのことであり、「意見があります。(我有意见!)」と言い出すと、かなりの大声で話しだします。これを喧嘩口調と言われればそう見えます。これは男だけでなく、いやむしろ男以上に女はそうです。ただし、社内で暴力沙汰になる、ということは私がいる間は私が知る限り一回もありませんでした。日本では、「社長室にいつでも話をしに来ていい」と言っても大企業では誰も言いに行かないでしょうが、中国ではそんなことを言わなくても(年が若くて言いやすかったのでしょうし、そういうのを拒絶しない人だという評判があったのでしょうが)どんどん言いに来ます。でも、そんなに早口で捲し立てられても聞き取れません。(たいてい給与の関連ですが)
人はどのようなときに相手に意見を受け入れるのか?という時に、「相手の意見が正しいから」と必ずしもいつも合理的判断で受け入れているわけではありません。もちろん、自分が誤った情報認識、誤った判断をしている場合はありそれを指摘を受け修正する場合、というのはありますし、そういう場合は誤りを認めて謝罪して訂正するしかないわけですが、大抵は「見方、見解が相違する」という場合です。特に、日本人の場合、親や学校で「自分は正しくない、卑小な存在である」と思い込まされて育っている傾向があり、非常に自己肯定感が低い人が多いですし、かつてはそういう人が管理職に登用される傾向すらありました。こういう人は自分だけでなく部下に対しても、自分同様に価値を低く見る傾向にあり、組織全体が不健康な状況になりがちのため、できれば管理者に登用しない方がよい人物です。
しかし、こういう「子供に自己肯定感を与えない」国は非常に珍しく、中国を含め多くの国では親は子供に、「自分は生きる価値がある、唯一無二の存在である」と教えていますし、限度はもちろんありますが、自分の幸福のための「自分優先」「自分勝手」は当然のことです。(ただし、中国ではどんな若者でもお年寄りには即座に席を譲ります。この「自分勝手」はそうした「正義」の前提の下にあります。)そこで見解の相違が生じることも当然のことであり、弱い立場のものがそれを主張するときに、より自分の主張を通しやすくする方法として、大きな声で力を誇示する、という手法を取るのは当然のことです。暴力に訴えたり、裏でこそこそ怪情報を流されたりするよりよほど正常な方法だと思いますが、いかがでしょうか?
このような「自分の利益を(合法的な範囲で)大きくするよう主張し、交渉する」という姿勢は他にもいろいろなところに現れます。アジアに旅行に行き、マーケットに買い物に行くと、相手はトンデモナイ値段を電卓で吹っ掛けてくる、という場面に出くわすことがあります。日本人の男性、それも年配の人はこういう場面に対処するのを苦手としている人が多くいます。買う気がないならば通り過ぎればよいのですが、そうではないならば勝負を挑むのがアジアでの競争に勝ち抜くビジネスマンの必須?のスキルです。詳しい説明は省きますが、こういう吹っ掛ける手法を交渉分析の世界では「アンカー効果」といい、そこを基準に交渉することで有利に運ぶことができるということが実証されています。これを否定するには、自分の希望する価格が中間点付近になるよう、相手の価格を挟んで反対側の価格を提示するのです。たとえば、自分の希望が60元、相手が100元と言ってきたら、20元(100+20=60×2)、と主張します。すると相手は怒ったような顔をしてこちらを威嚇します。こちらはすまなそうな顔をする必要はなく、相手の顔を澄ましてみてじっとしていれば、相手は多分少しだけ下げて交渉してきます。そうしたら自分も同じぐらいだけ歩みよればよいのです。そうすると60元付近で妥結します。これは単純なようですが、多くの事例で実は、「双方の出発点の中間点付近で妥結する」ということが実証されていますし、彼らはそういう強い交渉を行うことで自分の損失を減らすことができることを家庭や社会の中で学習しています。だから、日本では、「はしたない」とされるようなこのような交渉を仕事の中でも堂々とします。実際、これは「はしたない」でしょうか?会社にとって、「自社の利益を最大限にする工夫」をしてくれているのではないでしょうか?暴力や暴言は使いませんが、表情や声色、声の大きさなどを駆使して交渉しているのであり、それは実力主義の社会の中でよりよく生きるための力だと思います。
私は日本に帰ってきてから以前よりも仕事のストレスが少し減りました。それは私も、「職場では人当たりよくしなければならない」という「道徳」に縛られていてそれが苦痛だったのですが、中国人の働き方を見て、少しは「無神経に」生きることを覚えました。
「相手に従う」「卑屈にする」そういう教育は、そうしている限り組織が老後の面倒までずっと保証してくれているような時代にはそれでよかったでしょう。しかし、今や会社は今の業績に見合った給与しか保証してくれません。中国、もっと言えば諸外国とだんだん同じ状況に日本でも働く人は置かれるようになったのです。ならば、図太く交渉すればよいし、ニヤニヤせずに普通に仕事をすればよいのです。その変化に気づけない世代を冷笑しながら、礼儀だけは保って強く生きればよい、そう、中国人のように。