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柔道、空手、テコンドー、そして剣道

 いろいろあったオリンピックが閉幕した。個人的には一生分の運を使い果たして8月1日夜の男子100メートル決勝に当選したのだが、最後にはやはり私らしく無観客開催になったことを、今後は新たな営業ネタとして生きていく所存である。また、少し関わりがあったアスリートが最終日に奮闘した姿には、その悩みや努力に少しだけだが触れていただけに心動かされた。

 そんな中、今回のオリンピック(今回だけだが)では空手が採用になった。そして、剣道は候補にもならなかった。実はこの2つは私は経験者である。(剣道の方がはるかに長い。)そして、空手には、テコンドーという類似競技があり、こちらは完全に定着している。定着しすぎて、今回、テコンドーの生みの国である韓国は金メダル0で、世界各国の優秀な選手がメダルを分け合った。韓国のファンにとっては残念なのかもしれないが、それだけ世界中で普及し、競技人口が増えていることの証であり、韓国からの優れた指導者が世界中で捲いた種が結実した成果であるともいえる。
 柔道もかつてそうして世界競技へとなっていった。

 優れた選手がいる以上に、優れた指導者が世界中に柔道の面白さを広める活動を行い、世界中から日本選手を負かせるような優れた選手が輩出され、前回の東京オリンピックを契機にオリンピック種目となった。今回、混合団体では日本を破ってフランスが優勝したが、フランスの柔道人口は、日本よりはるかに多く(フランスの人口は日本の半分ちょっとなのだから、日本よりもはるかに人気のあるスポーツであるということである)、優秀な選手が多く輩出されて当然なのである。

 もう一つ、柔道は世界競技へと成長する過程で、武「道」の道を捨てるという決断をし、ルールの標準化と判定の平明さを重視するという決断をした。いまだに「美しい柔道」とか「礼に始まり礼に終わる」「心技体の充実」と言っている業界関係者もいるが、今の柔道という競技の特性を理解してそこに適応できた選手だけが優秀な成績を収められる。日本だけがわが道を行っていては勝ち目はない。また、ルール上は日本的な「技の有効性」のあいまいさを最大限廃することで、指導者や審判員の育成をマニュアルと研修で可能にした。そして、「礼」の精神は、「世界共通の「スポーツマンシップ」へと統合されて説明された。
 普及に伴い、胴着は安価な化学染料、化学繊維のものが普及し、畳は合成樹脂製が世界中で使われるようになった。そして、映像の時代になり、胴着は青と白に色分けされ、見ている人にわかりやすいよう、面白いようにルールが改正されていき、最近ではきちんと組み合って技を掛けあうことが義務化されたことが、元々技の切れで勝負する日本選手には有利に働いた。このルール改正は、「柔道のあるべき原点への回帰」と自画自賛する人がいまだにいるが、実際には、猫がじゃれているような映像が延々続くと面白くなく、豪快な投げを期待するファン心理を反映したマーケティング上の理由によるものである。

 このように、世界の柔道人は、多くの「柔道とはこういうものである」という先人の作った固定観念を捨て、多くの人が容易に理解可能な「標準化」をルールに対して行い、さらにはマーケットに合わせて、ルールを柔軟に変化させることで柔道は世界競技としての地位を確立したのである(そのうち、3分1ラウンドになり、間にCMが入るかもしれない)。柔道の類似先行競技であるレスリングフリースタイルが、ここ2000年ほど!、旧態依然で変化をしていないことも柔道には幸いしたかもしれない。

さて、剣道の話を少ししたいと思う。

 剣道をご存じない方は、剣道の有効ポイント(剣道には「有効」「技あり」はなく、「一本」しかない)とは、面、小手、胴、突き(喉部分)に竹刀でヒットすることだと思っておられるかもしれないが、それは必ずしも正しくない。そして、それを理解しているかどうかは、有段者、それも2段以上になれるかどうかの分かれ目でもある。
 剣道の有効打の判定基準は、信じられないかもしれないが、未だに「切れたかどうか」である。もちろん、本当に切れては競技ではなく事件になるので、その「切れたかどうか」は想像の産物である。そのために「残心」の有無が重要になる。と言っても何のことだかわからないだろう。残心とは何かはここで書くとそれだけで3千文字ぐらいになるので省略するが、そのうち一つは、「声(気合)が必要」というものである。

 私は小学校5年生の時に遠くの大きな大会に遠征して、いいところまで勝ち進んで、相手の小手にヒットしたのに、無効(旗を下で交差させて振る)と判定されて負けたことがある。確実に2度もヒットしたのに、なぜ一本にならないのかと試合中にもかかわらず、めちゃめちゃ腹が立った。

あと、この基準を知り剣道がつくづく嫌になった。(その後、中学でもやってはいたが)。私にとって、剣道は、できるだけ遠くの間合いから思いっきりジャンプし、スピードで相手を打撃するスポーツであり、それが違うと言われると、臭くて不潔な面、重い防具、大して痛みに防御になっていない小手などすべてが嫌になった。面をつけるときに、頭に手拭いを巻くのだが、その手順もバカげていると当時から思っていたし、そもそも機能性のない袴も嫌になった。
 道着を洗うと色落ちするのも、袴がいちいちアイロンがけが大変なのも母親にだいぶ面倒をかけた。柔道には胴着をつかむという要素があるので、襟や裾の長さという要素があるのだが、剣道にはそういう競技要素はないので、藍染めの道着と袴である必要性はまったくなくて安全性さえあればジャージでもよい。


 なぜ、私のポイントがとられなかったかというと、先ほどの「判定基準」には、公式に「気合」(これも残心の一部なのだが)が判定基準であり、そのための声が出ていなかったからである。たまたまなのかもしれないが、そういう「信念を持つ」脳みそ筋肉系の審判にあたったということかもしれないが、そういうことが許される基準であるということである。
 剣道の試合を見ると、鳥が首を絞められたような奇声を選手が発しているが、それはこの「基準」があるせいである。だが実際には、声を出している間は人間は動けないので、出し始める瞬間(息を吸い始める瞬間)にこちらが動き出せば有利であることを小学生にして私は知っていた。子供心に声なんて何の関係もないだろ…と思ったし、自分が奇声を発するのは嫌だった。私の「非合理的な守旧派」を粉砕することを人生のテーマとする生き方はこの時に決したようなものである。
 

 剣道には、フェンシングという類似競技が既にオリンピックにあり、今回も日本選手が大活躍した。日本では剣道の方がいまだに競技人口ははるかに多いだろう。しかし、剣道には日本以外の競技人口はほぼいない。
 剣道の「ローカル魂」をどんどん合理化していくと、実はフェンシングに似通っていく部分が多くある。それは、フェンシングが長い時間をかけて、世界競技となるために、既に「標準化」のプロセスを進めてきたからである。それでも、テレビ映りという点では、剣道はフェンシングにとって強敵だろう。何しろ、サムライの決闘そのものであり、コンタクト要素も強く、動作も大きくスピード感もある。1985年にアメリカの片田舎で剣道をデモストレーションしたことがあるのだが、その時はとんでもない盛り上がり方で地元ニュースになった。本来の県道は柔道以上にエキサイティングなスポーツである。

 しかし、剣道はその「標準化とマーケット対応」という道を選ばなかった。剣の道は、そっちではなかったらしい。団体上層部の昔の意思決定を私は知る由もないが、剣「道」にこだわったのではないだろうか?そして、それが嫌で私を含む多くの若い競技者を失い、競技の科学性を貶め、衰退を続け(当人たちは認めないのだろうが)、世界競技になる機会はもう二度と来ないだろう。
 もし、剣道界隈が私がまだ競技をしていて日本経済が上り調子だった80代に、すでに世界競技となっていた柔道を見習って、ルールを標準化平明化し、道具の費用を軽減し、世界への普及を重視した活動をしていたら、今回のオリンピックで競技に加わっていたのは、空手ではなく剣道になっていたのかもしれない。そう思いながら、空手での海外から来た優れた選手たちの活躍を見ていた。

 市場に受け入れられるように供給体制を整えるためには、古い「思い」を排した「標準化」が必要である。そして、多くの人に利用されるサービスになるには、マーケットの趨勢に対応した変化が必要である。

 柔道にもテコンドーにも、空手にも、剣道にもその「変化」に頑迷に反対する「武道家」が多くいて、おそらくは組織の上層部を占めていた時期があるはずである。しかし、剣道以外は、そこを脱して市場を拡大し、剣道だけはそこに留まることが正しいと思い込み、衰退の道を歩んだ。私は10年近く剣道に関わっていたのだが、当時から、そして今でもそういう剣道指導者は先人の文化を食いつぶしたとして非難されるべきだと思っている。そういう人は、一競技者にとどまり、組織を率いるべきではない。

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