昭文社が「スマホに押されて」苦境に立った、という記事が先週の同社の早期退職募集の報道に伴ってたくさん出ています。しかし、この状況は20年ほど前からすでに始まっていたものであり、決して「スマホ」が主因というわけではありません。
私はこの地図関連業界に15年ほど在籍していて業界の動き、そして昭文社を含む業界各社の経営の決定のあり様を20年ほど見てきました。同社の早期退職はたしか10年ほど前にも行われており、今や業界の雄ゼンリンとは大差がついてしまいましたが、20年ほど前までは決してそんなことはない自他ともに認める「ライバル」でした。実は昭文社の幹部の方に何度かお会いしたこともあり、昭文社から自分のいた会社に移ってきた人も同僚にいましたし、またその逆に自分の可愛がっていた部下が私の面倒見が悪いせいで昭文社に転職してしまったこともありました。
<その時、私は30過ぎだったのですが、その子に「課長はいつも秒単位で忙しくしていて、ずっと相談したかったのに相談できなかった。」と言われました。私の管理者人生で痛恨の出来事でした。>
細かな内情はもちろん書けませんが、地図業界の20年を見ると、やはり「経営判断」。そして、それを可能にしたものが何だったのか?また、昔の決定が今に続いている、ということをとても実感したこともあり、書かせてもらうことにしました。
今から20年前、ゼンリン、昭文社の両者、そして業界の他社も押し寄せる「デジタル」の流れにどう対処するかに試行錯誤していました。
一つは、地図は「データベース」なのか、それとも見た目にキレイで分かりやすい文化的な「出版物」なのか?という岐路に立ったとき、ゼンリンは様々な社内の軋轢をやりくりしながら、データベースの道を進んだが、昭文社は相当あとまで「出版物」文化から離れようとしなかった、という点です。
あとからならば何とでも言えますが、20年前は両社とも「電子地図」よりも「紙地図」の売り上げの方が圧倒的に多かったのです。紙地図には、見やすい文字配置や建物の表現方法などに様々なノウハウが存在しており、またその美しさの「文化」はそれぞれの会社で大事にされていました。その後さまざまな改良が電子地図でも行われましたが、当初電子地図はこれらを相当範囲で諦めなければならない商品でした。もちろん反対もありました。
一方で、電子地図、さらにはその頃に出現したインターネットでの地図配信というものの売上が、それまでの紙地図の販売単価に比べれば非常に安いものであり、単純に「これからは電子の時代だ」と言って移行すると、社内的にも高単価の自社の需要を食い自分に返ってきてしまうことも現に起こる問題でした。電子地図に移行するということは、新たな用途の拡大、新たな課金モデルの拡大ということとセットで進めなければなりませんでした。
また、紙地図を書店や街で紹介して売る販売員、そして製作印刷する設備をそれぞれかなりの数保有していたわけですが、たとえばその担当者に「今日からあなたは地理情報システム担当」「来週の富士通さんとの打ち合わせの準備して」と言ったところで長い間「システム」と無縁の仕事をしてきた人にとっては容易にこれらに対応できるものではありません。そうした社内の人員をどうする、という問題は特に日本のような人員の流動性が低い(20年前は今よりもさらに低かった)社会では現実の問題として無視できませんでした。
その壁はどちらの会社にも相当高かったのですが、ゼンリンは若い人をどんどん採用し、あるいは興味のある若手を電子部門に積極的に投下していき、カーナビ、警察や消防、そしてネット配信では自社サービスからあるタイミングでGoogleMaps、NTTドコモへの提供と、当時経営者としては決して簡単ではなかった、上の要素を乗り越える決断をして、一旦決断すると相当の戦力をそこに集中投下していきました。一方で昭文社は、編集、そして文字や写真のコンテンツを生かすため、それらのコンテンツを自社で配信する仕組みを作り他社へ提供する、という道を当初は選ぼうとしていました。しかし途中からPNDと呼ばれる格安カーナビに注力する方針に転換しそこでゼンリンを追いかけようとしました。しかし、PNDはこれはスマホアプリとの差別化が出来ず早期に消えていきました。
もう一つは、地図は最初に作るときには膨大な作業コストがかかるのですが、経年変化への対応のための更新のコストはそれに比べれば十分小さいという性質があります。同じものを2社目が後追いで作る際には、「コピー」的な不正を行うか、相当の技術革新がないと1社目のコストを下回ることは難しく、しかも、地図というのは、基本的に周辺の様子を平面上に投影し、そこに情報を表示する、というものであり、そこにとどまる限りでは劇的な差別化というのが難しく2社目が1社目の売り上げを上回ることはよほどの価格戦略や営業力がない限り難しい。したがって、全国の詳細地図を先行して整備すると先行者利益が相当期待できるものである、ということに対してそこに喧々諤々の議論の末踏み込んだゼンリンと、躊躇った昭文社。
実は上場はゼンリンが先行したものの、東証一部への変更は昭文社がずいぶん先行していました。しかし、大きな投資を先にできたのはゼンリンでした。そこにはただ単に技術や営業力だけでなく、財務面での巧みさも一枚上手であったように思います。
全国整備と簡単にいうようですが、北海道のほぼ等高線しかない(しかも等高線はとても細かくびっしりある)山地の地形図が毎週約1000枚程度ずつ、延々と大きな箱に入って作業用に送られてきたときには、私も作業員も唖然です。「コンター コンター」(英語で等高線の意味)と担当者が嘆きの歌を歌いながら作業計画を立てているのを慰めていた当事者でもありました。
そして、どちらも創業家が今でも株主として大きな存在ですが、ゼンリンは早い時期に同族以外、そして若いリーダーが経営の主役になり、昭文社は、・・・(ちょっと発言自粛)
これら判断ポイントは、今になって「あの時、こうだったんだな」というのではなく、当時から大きな論点であり、それぞれが選択してきたものでした。
経営者の判断というのは本当に重大です。何かの判断、あるいは市場の状況が一つ違っていたら、立場は逆転していたのかもしれません。
歴代のゼンリンのこうした判断と、それを実行してきたリーダーの方々、というのは少なからず知っているのですが、いまさらながら敬意を払わずにはおれません
地図の世界ではカーナビ向け自社地図を唯一子会社で保有するパイオニアが経営権を香港ファンドが握ることとなり、今後の動きが注目されます。そして、自動運転の時代へとまた競争の局面は変わりつつあり、競争相手も地図メーカーだけではない時代になりました。今はもう業界を離れて5年になってしまいますが、これからも関心のある業界です。