先週衆議院を通過した「入国管理法改正」 今月はこの話題からスタートです。
以前、在日中国人、朝鮮人、韓国人、それ以外にもインドや中国から来た人がたくさん働く上場企業に勤めていました。約一万人のうち部長・次長級にも外国人が何人かいて、レベルの高い仕事をされていました。
この会社、そのほかに(もちろん、法定義務があるからですが)知的障害のある方をたくさん雇用し、職場やオフィス近隣の清掃や軽作業に携わっていました。
先にこちらに関して言えば、頭では、「障害のある人もできる範囲で参画できる社会を目指そう」ということがわかっていたつもりでした。しかし、実際に毎朝、職場で挨拶し、重いものを運んでもらい、彼らの汗をみて、普通に「ありがとうございます」と言える職場、というのに私は40歳を過ぎて初めて勤めました。その体感として「障害のある人と一緒の職場で働く」ということを知ることができたことに対して、この会社にとても感謝しています。
それは外国人についても同じです。多少日本語がスムーズではない人もいるのですが、実際、法務部の外国人と言い争いになって法務部長に「担当換えてくれ!」と怒ったこともありますが、それは枝葉末節にばかりこだわって、ビジネスモデルの本質的な価値とリスクの話にならないからで彼が外国人だからではありません。逆に理解が不十分なまま発言して、これまた他部の外国人のマネージャーに非難され赤面したこともあります。お互い自分の成果にこだわって気を張って仕事をしていると私も気が強い方なので時々ぶつかるのですが、外国人の方が論理的なスキを突いてくる鋭さがありましたし、それでも後に尾を引かないように思いました。
■差別がないとは?
そんな中、彼らの一人と少し私事を話す機会があり、この会社になぜ外国人が多いのか?外国人の中ではどういう見られ方をしているのか?を聞いたことがありました。彼は、こう言いました。
「実力主義で差別がないと外国人コミュニティで評判だから」
この会社の価値観のうち、もっとも重要なものは、「年齢、国籍、性別で一切の差別を行わない。金銭的な(短期・長期それぞれの視点は当然あるが)会社への貢献という一点のみで評価する。」というものでした。実際、20代女性の執行役員もいるし、売りまくって20代半ばで1000万円プレイヤーも大勢表彰されていました。一方で40代後半、50代で実績が上がらずどんどん降格し、係長級、一般社員で20万円台の給与にしがみついているおじさんも散見され、私のように30代、40代で外部に道を見出す人がたくさんいる(というか、それが大部分の)会社でした。
そのため、最低限の知識を問う資格制度と教科書、そして業務の訓練システムがキチンと整備され、各部署ごとの評価システムが厳密に定義され、それが「杓子定規に」運用されていました。そうして、完成したシステムは「実力主義」を貫き、会社全体としては連続増益を続けており、人材面で見ると優秀な若者や外国人や女性を吸引し続ける仕組みでした。
しかし、世の中はそんな覇気に満ち学習能力の高い人たちばかりではありません。それはこの会社だって同じです。優秀な人と同じくらいそうではない人もいます。彼らにとって、この会社は決して居心地の良い会社ではありません。自分たちは「いままで頑張ってきたのに」(実はそうでもないケースも多い)、捨てられた、という「逆恨み」を持つ人もいました。私もその年齢に差し掛かりそれを言明するのは気の引けることでもありますし、誰もそんなことをおおっぴらに言ってくれませんが、40歳を過ぎると仕事の能力がそれ以上上がらなくなり、むしろ生産性が低下するケースが多いのです。悪く言えば、口ばっかりになる。手足を動かさない。稼がない。それはこの会社の基準からしたら、それに応じた給料しか払われないし、むしろ社外に場を見出してもらって結構な人です。
これは、確かに社員にとって同じ尺度が等しく適用されており、「公平」です。そして、「効率的」です。しかし、世の並程度の、旧弊の日本社会では守られてきたはずのおじさん達にとっては、「都合の悪い」会社です。
■女性が活躍、外国人が活躍する社会とは?
日本の多くの会社の終身雇用的給与制度では、役職定年のある50~55歳ぐらいまで徐々に給与が上がり続けます。
以前も記載しましたが、需要が伸び続けて生産を拡大する必要がある中で若いコストパフォーマンスが良い世代がたくさん供給され続ける人口がピラミッド型の時代にはこの制度設計は合理性がありました。人手が不足する中で長期的に、そして当面は低コストで社員を会社に固定するためには、退職金だけでなく、給与をできるだけ後払いになる形にすることにより、高い生産性の若い社員を比較的安価に長期的に安定して用いることができたからです。この制度の下では生産性は、新卒の最初の1,2年は見習い期間として給与に比べて著しく低いものの、その後30代半ばまでは生産性が高く、大きく給与を上回っています。この間は会社に対して給与以上に余分貢献しています。その後は生産性が落ちても給与は55歳ぐらいまで上がり続ける、そのため、会社にとっては不採算な人材となっています。たぶん制度を設計した大企業の「賢い人」はこの制度がその頃入社してくれた若手社員が40代になる80年代以降には副作用が大きく出て修正が必要になることも予想していたはずです。しかし、実際にその時になってみるとそれは社会的に簡単なことではなくなっていました。自社だけでなく社会全体が柔軟性を失ってきていたからです。
私は、女性の「寿退社」が推奨される雰囲気があったのも同じ文脈だと思っています。それ以前は戦前含めて女性が働くのはむしろ当たり前でした。農業や繊維工業のような労働集約産業ではなくてはならない人手だったからです。それが、この時期にむしろ社会的に抑圧されるようになったのは、体のいい「母性保護」に名を借りた「一番コストパフォーマンスのいい時期だけ使える都合のいい存在」として位置付けられていたのが実情でしょう。
その「後回し」のつけが今になって回ってきて大量の生産性の低いおじさんに対して若い人が安く高性能に働いて支えてあげる、という仕組みが必要になっています。この健康保険と同じような支える人不足の実情が実は日本のレガシーな企業ではあり、それが維持できなくなってきてしまっているので、90年代以降はなんとかして約束を破って、そのコストパフォーマンスの悪い層を放出しようとしているし、制度の激変が出来ないがために、性能のわりに割安な人材、今度は女性、外国人を多く取り込み、アウトプットを増やそうとしています。その若い層が給料以上に働いてくれれば、コストパフォーマンスの悪い層をどうするかというコンフリクトを先延ばしできます。それを、採用を絞り込む前(具体的にはバブル崩壊の1991年よりも前)に大量採用した層が定年退職するまで先延ばししたいからです。
一方で今のベンチャー企業や高成長企業、あるいは外資系は一般にこうした制度ではなく、私がいたような「実力主義」「成果主義」の会社が増えています。実力と意欲のある若者は最初は周囲の「大人」の影響を受けて、大企業志向で就職するものの、優秀な層の一部は(そう、優秀な層に限って)数年たつとこちらを選好する傾向があるだけに、何をもってこの不足を補うか、と言った時に、「女性」と「外国人」しかない、というのが今の政治に助けを求める大企業の姿なのだと私は理解しています。
しかし、本当にそれで問題は解決できるでしょうか?
力のある女性、外国人は今の若者と同じく、自分の実力が正当に評価され、効率的な仕事ができる環境を選ぼうとするでしょう。企業が自分の人生よりも十分長命であり、拡大が期待できる、という時代が終わっていることがわかっているからです。彼らが雇用の旧弊の「調整弁」として甘んじると思うのは考えが甘いと思います。そのため、今後の個々の企業の報酬体系は、「成果主義」にならざるを得ないし、実力のある人が比較的短期に昇給を実現でき、その代わり、年齢とともにコストパフォーマンスが低下したら報酬も低下するという仕組みに移行せざるを得ない流れにあると思っています。
私は若いベンチャー企業の報酬制度を設計する場合にも、この「日本の隠された不都合な真実」の話をし、組織の活力とは一体何か?何を組織の遺伝子とするのか?という議論を幹部の方とするようにしています。
■その先に恐れるもの
大企業もそれは十分わかっていますから、徐々にはありますが、成果主義的になり、生産性と賃金の年齢カーブが一致する方向に非常にゆっくりではあっても修正していくことになるでしょう。それは私が勤めていた会社に徐々に日本全体が近づいていく、ということです。しかし、ここの会社がそれぞれの最適を追求した結果日本全体がこうなった時、本当にそれで日本は良くなるのだろうか?ということは心配しています。
この現象が先行した外国では、「外国人に仕事を取られた」ということが叫ばれ、「外国人排斥」が起きています。しかし、そこで起きていたものは、私の知る限り「公正な人事システム」に対して、実力で負けてしまう層の不合理な反発だったのだと思います。会社はこれでたぶん正しかったのです。
私は会社の活力を失いにくい評価や採用の制度設計をすることはできますが、それは多分に成果主義の要素を取り入れたものです。、しかし、社会はその時どうすればよいのか、という点は私もわからないでいます。延々と続く投票をネット放送で見ながら、会社にとってはありがたいことだが、20年先の自分を含めた「社会の勝ち組ではない人」の心情にはいささか心配をしています。