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自分の認知バイアスにご注意を②

前回(こちら)から少し間が空いてしまいましたが、経営者や管理職が陥りやすいアブナイ思考の「癖」をご紹介し、自分にはその傾向があるな、と思ったら時々自分で気を付けるためのご案内の続きをご紹介します。

6 拡大解釈、過小解釈

文字通り、失敗や弱点を過大にとらえ、強みや成功を実際よりも小さくとらえることをいいます。自社の強みを正確に理解できない、というのはビジネスを計画する上では致命傷です。たとえ小さくても、その小さい「強み」をまずは社内、そして顧客に「利用メリット」として認知させ、「その分野でその顧客にとってのNo1」という認知を気づくことがマーケティングの最も大事な点だからです。事実が伴わないとただの嘘つきになってしまいますが、「強いこと」を強調して相手に印象付けるといためには、健全な自己肯定がその前提になります。

多くの経営者は物事を実施する際、リスクを局部化限定化して実施しているはずです。そのため、一つの失敗で「会社や自分がもうだめになっちゃう」という現実は実際には怒っておらず、適切に撤退し、原因を調査してから再チャレンジするか、その知見を活かして他の挑戦をするかすればよいはずなのに、ある種のリーダーは、失敗して恥ずかしい、二度とやるもんか、となってしまうのです。こうなると失敗はただの損失にしかなりません。

 

7 感情の理由づけ

これは私はとてもたくさん、こういう傾向のあるリーダーを目にして、あるいは仕えてきました。文字通り、「自分に沸き起こった好き嫌い、愛憎等の感情」に基づいて、物事の価値判断を行うのです。さらに悪いことに頭のいい経営はそのあとに、その結論に自分の感情ではなく、もっともらしい理由をかぶせて説明してしまいそれが結構論理的で否定が難しいし、彼自身もそれに納得してしまって自分の中のもやもやが解消してしまっていることもあります。

私の既出の例でいうと、アダルトPCソフトなんて自分が扱うのは恥ずかしい、という感情から「郊外店で家族がみんな来る売り場でオープンな場所にソフトを置くのはやめるべきで、家族みんなで楽しめるものをメインにするべきだ」と結論づけたのもこのひとつだったかもしれません。

もっとわかりやすい、よくある例でいうと、部下の昇進等を決める際、ルールで数値化データでガイドラインが決まっているにも関わらず、最終決定権は役員や部長にある、ということで自分に従順なものを登用し、そうではない人を遠ざける、という場面は過去に何度もその場にいたことがあります。その時に、決まっていうのは、「あいつは俺になんでも従って使いやすい」ということではなく、「あいつは伸びしろがある」とか「あいつは頭がい」、という理由付けなのです。さらには今のように数字が一覧表になって提出される時代になると、それを見越して、そのお気に入りに数字をゆがめてつける、というようなことを行う部長級もいます。(そしてそれを指摘した私もその次の次の回ぐらいからその場に出席できなくなってしまうのですが。)それほどまでに愛憎の感情というのは、特に「昔かたぎ」、あるいは語弊があるが事実として「田舎の」管理職の正常な判断をゆがめているケースが多いように思います。

 

~すべき思考

道徳のない資本主義は暴力ですが、資本主義は市場の選好に合わせて商品・サービスを提供することにより成り立つものです。より多くの快楽、より少ない労苦をより低いコストで手に入れることができることを探しているものです。しかし、特に日本では儒教的、というか封建主義的な道徳観がいまだに家庭・職場に特に地方を中心に根付いています。それが社会的な正義を守るものであればまだよいのですが、それとは全然関係ないところで、「こうするべき」と思い込み、自分を縛り他人にその物差しを強制する、ということで正常な判断が出来なくなっていることがあります。

そんなこと自分にはない、という方も、「へとへとになるまで働くのが正しい」、と思っているところはありませんか? あるいは、女性自身が、「子供のお迎えや調理は自分の仕事、夫は子供のお風呂とゴミ出しぐらい」と決めつけていて、自分の可動域を狭めていませんか?(社会がそのように束縛しよう、とする圧力をかけるのは当然おおいにあるわけですが)。最初はそんなつもりはなかったのに、そういう思い込みに自分自身を追い込んでいく、ということがバランスを崩すきっかけであることは多くあります。

経営者の方で、大して儲かっていないのに、「社会貢献」をとても重視し、あるいは「雇用責任」に縛られている、という方を時々見ます。うんと儲かっている方はぜひそうしていただきたいと私も思いますが、会社は、顧客に喜んで買ってもらえる商品やサービスを出して利益を上げればそれでよい存在である、というところに立ち返って考えないと、結局今の世の中、自分も社員も守れなくなってしまうのに、そういうケースではすごく判断が不自由だな、と思うことがあります。

 

9 レッテル貼り

これも他の項目と似ています。失敗は、自分の実力のほか、環境要因、部下の実力、競合の対応などさまざまな要素の結果で、これらの状況が変わると結果も変わった可能性があります。それにもかからず、失敗→あいつは(自分は)だめだ、使えない。 というような判断をするようなことは多くあります。さらにひどくなると、「あいつはうそつきだ(成績面では目標を達成できなかった)」「あいつは怠けものだ」と人格攻撃しだす管理者もいます。これは特に50歳以上になると多くなるという傾向があるようです。私は専門家ではないので、引用でしかありませんが、50歳を過ぎると前頭葉の働きが低下し、感情を抑制できずに頭に浮かんなどをだ感情がそのまま言葉や行動に反映されてしまうということが増える、という傾向があるそうで電車の中や混雑した群衆でなぜかおじさんばかりがキレているのは、これが原因だといいます。これに似た現象は会社でもたくさん起きています。50歳以上だからダメ、というわけではありませんが、私もその年齢に近付き気を付けないといけないと思っているところです。

 

10 誤った自己責任化(個人化)

経営では自分でコントロールできることは限られています。社長であれば、本当はそれすら完全に自由ではないのですが、「幹部の人選」と「社員の給与」「商品の価格」「商流」などは中小企業であれば社長が決めることができますが、一個一個の商談、採用などは社員にゆだねるしかありません。そして、その結果のすべてに社長は責任を持たなくてはならない存在なわけですが、結果に責任を持つ、ということは本当にその一つ一つに責任を持つ、ということでしょうか?そんなことはできるわけがなく、たとえば不正や重大な過失は社長の責任ではなく、その人の責任なのです。時々、本当にいるんです。天候不順で先月客足が伸びなかったのは自分のせいと思い悩んでいる人。天候不順時に対策をするのはできるかもしれませんが、天候不順は社長のせいではない。

 

これを書きながら、改めて自分でも振り返ってみると、知らないうちに肩が凝るように考えが凝り固まっている部分があることに気づかされています。誰しもがそういう部分があるのだと思いますが、経営は特にフラットな情勢判断が必要になるだけに、自分でも時々読み返してみようと思っています。

 

■こんなことをしてみたら…

前回も記載しましたが、自分でも自分で振り切れ切れないようなゆがみを感じる方は専門家との対話の機会を早めに持つようにするべきです。(あっ、すべき思考)ただ、こうした感情に気づいたときに、それを振りほどく「方法論」というのは認知療法にあります。それは、その事実と感情を紙に書きだしてみて、そのうえで、感情は0~100%でどれくらいなのか?そして、事実は0~100%でいえばどれくらいなのか?を自分で書いてみて、その乖離に気づくという方法です。私も入院中、この練習を延々とやらされていました。その成果として、失敗して、「これはまずい、破局的!」と思うこと自体はたくさんあるのですが、その瞬間、「でも、この事態はまあ、30%程度だな」というような感じで自分で自分に反論できるようになりました。

私は鬱で1年半も入院し、すべてを失いアルバイトから26歳の時に再出発したのですが、そのあとは入院前同様に人の何倍ものエネルギーで活動してくることができたのは、入院中すべてを失った代わりに得た2つの財産、「妻」と「自分を正確にとらえる認知の方法論」のおかげが大きかったと思っています。

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