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政治と経営は似ている②

今日は参議院選挙の投票日。あまり選挙カーの騒音を聞くことがなかったように思うのですが、それは平日の仕事の拠点が今までの都心から郊外に移ったからでしょうか?前回、「政治と経営は似ている」と題して、誰にも理解されないリーダーシップの厳しさについて書きました。

もう一つ、私が政治に興味を抱くのは、「大衆はどのように購買選択をするのか?」「それは時代とともにどう変化しているのか?」ということをよく表す鏡になっている、ということです。

語弊を恐れず言えば、経営も、政治も実態ではなく、「認知」で選択されます。私がよく言うようにマーケティングの世界では、Perception is Realityです。そのものがどうであるかということよりも、どのように思われているか?がそのものの購買を決定付けるのであり、しかもその「認知」は長い間の努力で蓄積的に構築されるものです。それが大きな不祥事があると一瞬にして崩れ落ちたりもします。

そのために、市場の宣伝では、本人による宣伝のほか、「作られた口コミ」「水増しされた評価」に溢れかえっています。関連するビジネスに携わっている方は、ECサイトや予約サイトの口コミは、お金を払って作られているもの(だから日本語の怪しい口コミが沢山ある。)であるとか、評点が単純平均ではないことは当たり前だと知っています。悪い口コミ評価が直接掲載されない予約サイト、商品サイトというのもたくさんあります。それは口コミサイトが掲載店から月々の利用料金を他社ではなく自社に払ってもらうために必要なことです。

しかし、世の中の多くの人はそんなことは疑っていません。もちろん、だからと言って消費者が何も考えていないというわけでもありません。それなりに自分で読み、調べ、聞いて、自分が出会った情報を真実かどうかは一応判断して、そして選んでいるのです。しかし、多くの人はその判断の基準となる科学的知識、読解力、ビジネスの構造への洞察力などを十分に兼ね備えているわけではなく、情報も完全なわけではない中で「自分の真実」を見出しているのです。

口コミの操作的なことや、不真実の流布は私は規制されるべきだと思っていますが、そこまで酷くなくても、データの表現方法とイメージ写真や魅力的な「ワンフレーズ」を持ちいて人の意志決定を操作してしまうことは可能です。むしろ、商品そのものよりも、その内容によって人は購買を決めている要素が多分にあります。それを認めて、良識の範囲内でいかにうまくそれを行うか?は業績を決める極めて重要な要素です。広告や営業という行為は、これを行っているものです。

政治も同様に、同じ統計的事実を皆が自分の主張に沿う形で加工して、曲論的なワンフレーズで訴求します。そして、多くの有権者は、そうした統計の加工、事実の印象操作をあまり深く意識することなく、「自分は正しい」と信じ、ある人はSNSで主張したりもし、投票します。それは別に非難するようなことでもなく、間接民主主義、議会制民主主義とはそのような問題点を内包している制度なのです。それでも、人類はこれよりもましな制度をいまだに発見できていない、とはウインストン・チャーチルの言葉(正確には「民主主義は最悪の政治といえる。これまで試みられてきた、民主主義以外の全ての政治体制を除けばだが」)ですが、70年たってもそれはいまだに変わっていないということでしょう。

そういう観点で政党、立候補者を見てみると、それをわかっている政党・候補者と、わかっていない政党・候補者がいることがよくわかります。あるいは、どの社会集団にどのような認知を持ってもらうべきなのか?という市場のセグメンテンーションとそこへの認知の取り方を戦略的に行えている政党とそうではない政党がここ15年ぐらいかなりはっきりしてきているようにも思います。2000年頃、あるMBAスクールでマーケティングの講座を取っていた時に、「政治もマーケティング」というテーマをある人が言ったのですが、その時はそんなでもない。みんな下手、という結論に至ったのですが、今はそうではない、ということです。

もう一つ、なぜそうなったのか?という点も経営と極めて密接な関係があると考えています。昔は、広告というとテレビCM,雑誌、新聞、ラジオや看板などで行われていました。もちろん、飛び込み訪問営業、手配りビラ、店頭POPのような局所戦もありますし、小さな会社にとってはメディア広告類は予算が大きすぎて、後者のプロモーション施策しかとりえなかったのですが、広告を含め、「メディアにどう取り上げられるか」が極めて重要な要素でした。

しかし、それはこの10年あまりで大きく変わりました。インターネットの広告規模は今年テレビを抜く規模に成長しました。テレビの枠は有限であり表現内容や手法にも厳しい制限がありますが、ネットではその制約は緩く、ターゲットを絞りこみ、それぞれに向けたメッセージを届ける手法が存在しています。マーケッティングとは、「誰に何をどう伝えるか」の技術ですが、いわゆるマスメディアでは実際には、その絞り込みと規模を両立することは難しかったのです。たとえば、月曜夜のドラマ枠はF1層が見ているか?と言うと実はかなり幅広いそうであるし、同じF1層でも嗜好が多様化している中で絞り込むことができない、という課題をマスメディア広告は抱えているわけですが、ネットではこれを大幅に改善することができます。それ以前に商品の特徴や必要な詳細情報をカタログなどに頼らずにふと思った時に見ることができるようになった、というのはここ15~20年程度の話なのです。

同様に政治もネットを通じて主張や成果をアピールすることができるようになりました。対象も様々な方法で絞りこみすることが可能です。今回もSNSで多くの政党が広告を出稿していますが、見た限り明確にはわからないのですが、年齢や地域、その他の属性より異なる広告を表示することも技術的には可能です。そして、このネットが普及する前、実は政治を伝える、という機能はテレビと新聞に支配されており、そこでの見出し、表現により操作することが可能な状況でした。日本の「ジャーナリズム」は伝統的に左派傾向が強く、経済界がどんなに団結して右派を応援しても、奥さん、若者は左派の支持率が高いという傾向がありました。ところがネット世代になり、直接の情報収集ができるようになると、その収集能力の高い若者は右派支持層になったのです。

これは、「右派が正しく、従来型マスメディアが間違っている」ということを言っているのではありません。右派の主張する成果にも、下手にデータをごまかしているようなものはたくさんあります。私が言いたいのは、経営と同様、政党も、広告、webサイトの記事やSNS、イベントやその記事などを通じて自らのパーセプションを自分でコントロールする手段を手に入れた、ということです。メディアからしたら自分の影響力が低下したことを認めたくないでしょうが、この傾向は経営がそうであったように、政治も大きな、そして不可逆的な流れとなっていくでしょう。そして、そのパーセプションのコントロールを行う知識や技術と資本力が重要性を増した、という経営と同じ変化が政治にも起きたということです。

昔私は、選挙のたびに電話帳データを市町村別にし、さらにそれを帳票に印刷して納品する仕事を左派政党向けにしていたことがあり、結構な売上と納期の短さに対応するため、専用システムを開発したのですが、そのような「労組を動員して電話攻勢」という時代ではなくなった、勝負はその前についている、ということです。私的な視点からいうと、「政治は、ジャーナリズムからマーケティングの時代になった」と考えています。

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