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緩慢な死

 先週は株主総会の集中日があり、東芝をはじめ様々な会社の総会の模様が話題になりました。

 ところで、経営者の皆さんは、取締役会や株主総会をどんな形か(オーナー100%会社だと書面だけというところもあるようですが)は別としてやられていると思いますが、そこでの経営方針や、社会的要求との整合などについて、議論はありますか?もっと言えば、社長に対して苦言、それをやってはダメという発言は、その場で出ていますか?

 私が今まで経験したものは、すべて真逆でした。

 それどころか「社外取締役(親会社からの役員)がいるようなところで、議論とかするな!」と取締役の時に社長に怒られたこともあります。(でも、私がいないと事務処理も資料作りも回らないので、私は自分を変える必要はありませんでした。私はそういう態度の人間です。)そこを見て見ぬふりをして、問題を先送りすることは責任の放棄である、と私は考えたし、他人にもそう言ってきました。

 やれていないことを直視し、それができるよう人的配置を変えたり、補強したり、リーダーを交代させ外部から連れて来たりすることは、取締役の責任の最たるものです。もちろん、会社には至るところに「やれていないこと」があり、それを逐一あげつらっていては何も進まないのですが、会社が存続するための戦略の遂行上のボトルネックや、昨今ではワンストライクアウトの様相を示してきたコンプライアンス遵守体制の確立などは、他のことへの資源配分を減らしてでもやらざるを得ないことであり、その決定こそが取締役会の責任です。所有と執行の分離という観点から言うと、そこは正確には、「それができる全体最適と戦略眼のある執行責任者を配置する責任」と言った方がよいのかもしれません。
 「〇〇管掌取締役」というのが自分のテリトリーの利権を主張することが日本企業では当たり前になっていますが、部長がそうなのはある程度仕方がありませんが、取締役はそれではいけません、という話をしたら、口をとがらせて不満をあらわにした大企業の役員もいました。それが、日本のサラリーマンの上がりポジションとしての「取締役」なのです。

 あまりにも経済の流れが速くなり、そして、低成長、と言うよりむしろ縮小の時代が本格化している中では、そうした問題を先送りしても、成長がそれを覆い隠してくれることはありません。結果は今対処するよりも、よりハードな着地をせざるを得なくなるだけです。
 しかし、日本の取締役会は、かつての成長が問題を覆い隠した時期に身に着いた、「先送りすれば問題はいくらか緩和する」ことへの期待、そして「サラリーマンの最終ポジション」としての取締役であったことから、これまで、「見て見ぬふりをすることで、お互いの任期中の安定を保証しあう談合組織」であることが正とされてきたのです。

 表題の「緩慢な死」は私が、そのような体質の会社の経営者に面と向かって非難する時に多用する単語です。(このブログでも何度か使っているつもりだったのですが、さっき検索したら今まで使っていないようでした)そのような問題を先送りし、責任を回避する姿勢は、企業に「緩慢な死」をもたらしています。そのような事例は古くからたくさんあるのですが、今回の総会集中日でも、とてもわかりやすい事例がありました。


 今年も企業統治界隈は、「東芝」ネタで盛り上がりました。「強欲な外国人に出資してもらったのがいけないんだ」とか、「正常な企業統治をわかっていないのは、実は東芝以上に経産省だった」とか…そうしたニュースに対する識者のコメントでこんなものがありました。「家電店での東芝への信頼感は依然として根強いものがあるのだ」(から、ぜひ頑張って欲しい、という文脈)

 この言葉が、ある意味、今の「東芝」を象徴するものだと私は感じました。東芝はすでに家電の製造・販売からは撤退し、今、「東芝」ブランドを世界で使って家電品を販売しているのは、中国の大手家電メーカー「美的集団」です。ちなみに、東芝は先ごろ発表した21年3月期決算の連結売上は重電、軍事等を中心に約3兆円でしたが、美的集団は、4兆円あり、売上規模だけならば東芝よりもかなり大きい会社です。
 東芝が家電から撤退し事業を売却したのは、「家電では世界に勝てず、利益でじり貧になったから」です。ちなみに、一度目の粉飾決算の発生源となった世界に名高いノートパソコンブランド「DynaBook」は、今、鴻海集団の子会社であるシャープに譲渡されています。

 ウェスティンハウス問題、あるいは医療機器のキャノンへの売却、メモリ事業の売却、天然ガスの高値掴みなど、ここ数年の東芝をめぐる動きには、「失敗続きで強欲な資本家に蹂躙されている」とのイメージが付きまとっていますが、そんなことが起きるずっと前から、東芝は量産品では価格競争力を失っていてそれに対する効果的な手立てを打つことができなかった。それが粉飾の原因にもなり、同時に重電・エネルギー部門への過度なかけに出ざるを得ない状況を生んでいたのであり、「緩慢な死」はずっと前から、おそらくは家電部門を原発点として始まっていたのではないか?というのが私の考えです。

 私は東芝の内部を知るわけではないので、推測でしかありませんが、なぜそうなったのかと言えば、おそらくは、「東芝だから国内生産」「東芝だから過剰スペック」「合議だから大規模投資は控えて、妥協する」「組合とはことを荒立てない」というような「ことを変えない集団思考」にあったのではないか?と思っています。(その意味では、ウェスティンハウスで、DDが大雑把だったというのは問題だったにせよ、大勝負を打ったのは、経営者の責務を果たしていたと思うのです。)
 売れなくなってきている、市場の価格に合わせるとコストが合わなくなってきている、ということはもう20年前から現場は分かっていたはずです。それに対応する施策もいくらでもあったし、それをやった会社もいくらでもありました。そこから死路は始まっていたのです。

同じように、今から10年後の経済面をにぎわせて、「識者」がもっともらしいことを言っている「凋落企業」の本当の原因は、今の株主総会、今の取締役会にあります。緩慢な死の最終局面の、呻きや心電図の乱れ…それがようやく表に見えているだけで、死はそのずっと前から始まっています。

 経営者には、「和」は必要ありません。政府が言おうが、社員が傷つこうが、会社が存続しユーザーの支持を拡大するために必要な手を今すぐ打つためだけにある機能です。それがなされなかったときに株主から退場を命じられるのは、それは正常なことだと私は先週の東芝の近づく「再終幕」を見て感じました。


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