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中国とんでも事件簿 涙そうそうが聴こえてくる

古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中 励ましてくれる人よ

晴れ渡る日も 雨の日も 浮かぶあの笑顔
想い出遠くあせても
おもかげ探して よみがえる日は
涙そうそう  (Writer(s): 森山 良子, BEGIN )

 

中国で若い工員を地方から採用する際、今ではすっかり「英語」に負けてしまいましたが、当時はそれでも、「しっかりとした実用日本語教育を行います」ということが採用の際のアピールポイントでした。実際、新規採用の際には、各部80時間程度の日本語教育をカリキュラムとして行っており、50音、日常の基本的な単語、それに業務に関連する日本語(使用するシステムのメニューや日本からの指示書が日本語)がわかるようにしてから実務に投入していました。会話レベルとはいきませんが、挨拶ぐらいはみな日本語でできるし、興味を持った工員は日本語検定に挑戦して(1級はかなり難しいのですが)2級合格者はかなりの数輩出していました。専門の通訳は工員100人に一人ぐらいの割合でいましたが、日本からの相談のメールの翻訳で一日のほとんどが終わっているような状況で、日常の業務の日本語は各部で担当者が自分で理解できていました。この日本語カリキュラムは彼らが時間外に工夫して教材まで作成してくれたオリジナルのものでした。

 

ちなみに中国では、ラインの工員はもちろんですが、管理者や管理部門のスタッフでさえも、ほとんど残業というものをしません。よほどのトラブルでもない限り…と書こうと思ったら思い出してみると、よほどのトラブルで翌日の稼働に支障があっても、帰ってしまっていて私が腹を立てて自分で復旧していたようなこともあったことを思い出しました。その中でも、通訳さんは日本からの出張者の応対をしていたり、昔日本で働いていたことがあったりという方が多かったので日本の感覚に近い(とはいっても結構ずれるのですが)理解をしてくれる(多少年長でそういう経験のある人を採用していた。)ので、助かっていました。

余談ですが、就業時間内で、「いかに要領よく完成させるか」を工夫しているのは、品質重視でべらぼうに時間をかけても当たり前だと思っていた私―多くの日本人はそうだと思うのですが―からすると、最初は「ずるがしこく」見えましたが、それが「世界標準」であり、モノの値段はそれを基準に決まっていて、時間を要するものはそうではないものに比べて値段が高いのが当たり前、というのは会計報告書の時にもお話した通り。それを受け入れないから日本人は給料が上がらないし、海外との競争に負けるのです。

 

日本語教育メニューの中で特に人気が高かったのが、「日本の歌を紹介してみんなで練習する」という時間でした。カリキュラム上は3時間程度だったと思うのですが、とても人気があり、ついには通訳さんが当時中国にも出現し始めていたカラオケボックス(ちなみに普通にカラオケというとそれは中国では風俗営業的要素を含むものを指しますので、ご注意ください。)に連れ出されていました。日本語が分かりやすくて、10代の少女たちの励ましになるような歌が通訳さんに選ばれるのですが、それまでの人気曲が冒頭の夏川るみさんの「涙そうそう」、私と名前が一字違いということで一時期工員の間で盛り上がった木村拓哉のいるSMAP「世界に一つだけの花」でした。寮に巡回に行っても、部屋から、あるいはシャワールームから歌声が聞こえてきて、新人を採用して研修が行われている間は、若い女の子ばかりで明るい雰囲気の寮がさらに明るくなるようでした。

私は30代前半で総経理として中国に赴任した歴代一番若い総経理だったので、歳の近い通訳さんと仕事以外でもいろいろな話をする機会がありました。それで私の好きな歌をみんなで練習するという話になりまして・・・(私は本当は中森明菜のファンなのですが)私が選んだのが、今井美樹の「PRIDE」。実は、創立20周年記念行事の際、全員で合唱するというので選ばれたことを後で知りました

 

そんな明るい日々は長くは続かないものです。先週の「趙某」事件の際にも記載しましたが、ある150人程度が従事する業務が、本当に私にも何の予兆もなく、「明後日で終わり」という連絡が来たのです。後で知ったのですが、日本では当時耐震偽装(姉歯事件)やその他の問題をめぐってすべての責任を外注先である当社に押し付けようとするスーパーナショナルクライアントと当社日本側との間で相当のせめぎあいがあった末に他社に取られてしまった、ということだったのですが、私も現場もそんな話は全く聞かされておらず、今後の業務量見通しについても提示された横ばい予測を信じ切っていました。

当時すでに全社で450人ほどいたピーク時からすると300人ちょっとに減少していたのですが、そのうち最大の150人のCAD設計業務が一気になくなる、つまり売上が半減する、ということでもあります。実はその直前に減った人員に対応して建物の一部を売却していた(土地には所有権はなく使用権ですが、建物は所有権が認められています)ためキャッシュについては心配がありませんでした。しかし、問題は当てもなくその150人の熟練工たちをどうするか?です。もちろん、このような状況では、それなりの補償を行って労働契約を解除するような合法的方法もありました。しかし、それは私としてはやりたくなかった。経営ってそれですべて終わりなのか?という疑問がありました。日本側の部長も同じ気持ちだったのか「何とかするから、人員を持ちこたえてほしい。」と言ってくれ、150人を「あてもなく、研修だけで維持する」という途方もない日々が始まりました。

 

まず最初にやったのは、交代制で勤務する150人を一同に集めて、今起きている事態と今後の方針と待遇を説明することです。こんな重大な事態で中国側には私含めて誰にも知らせてくれていなかったのに、日本からは誰も来てくれません。私が日本語で普通にしゃべって20分ぐらいかかる説明案を作り、それをその部門の通訳さんにあらかじめ翻訳してもらいました。また、人事制度、給与制度については人事部長にも同席してもらい対処することとしました。この人事部長は劉暁燕さんといい、私よりいくつか年上の武漢大学卒の女性で党員だったのですが、この時含めて、本当につらい場面を決して逃げずいくつも同席し社員に時には厳しく時には優しく言い聞かせてくれた尊敬する人物の一人です。

夕方説明会議が始まり、私が日本語で説明し、それを通訳さんが中国語で説明すると静かさが怖いぐらいに静まり返っています。「本日で、本業務はすべて終了します。明日は一部のエラー修正のみを行い、その他の方はすべて日勤とし、研修を行います。」「給与については過去3か月の平均値を研修課程で精勤する限りにおいて支払います。」「後継の業務については日本で調整中です。(本当は全くめどがない)これについては、状況が判明し次第、皆さんに部長を通じてお知らせします。」1時間弱の立っての説明が終わった後、一旦着席すると、脇から腹にかけて、そしてズボンのお尻が汗でぐしょぐしょでした。質問でシビアな質問がでたら、どうしよう、ということが一番の懸念でしたが、大した質問はでませんでした。そして、ある大卒社員が手も上げずにその場で言ったのです。「みんな、総経理を信じましょう」

正直その時は嬉しいよりも、その修羅場を乗り切ったという安堵が勝っていました。でも、彼がそう言ってくれなかったら局面は暗転していたかもしれません。

 

研修といっても、今までの業務の研修をしても意味がないだけでなくむしろ反発の原因になるので、管理者向けには私が「TOYOTA WAY」の本の内容の研修を行い、一般向けには日本語研修を行っていました。社員もみんな不安です。この先自分たちはどうなってしまうんだろう、と思っています。その時、みんなの不安でいら立つ心を静めてくれたのは、普段より多めに組まれた「歌の教材演習」でした。特に、この「涙そうそう」はメロディも歌詞も中国の彼女たちにとても人気がありました。毎日、研修の最後の20分ぐらいは歌の時間でした。

 

この異常事態は、日本側営業陣が無理をしてくれ、2か月後から徐々に新規業務が追加され、5か月で完全解消に至りました。日本語研修やTOYOTA WAYの研修は、徐々に減り、屋根の伏図の読み方や作成方法など新規業務の研修に差し替えられていきました。その過程で3割程度の社員は自主退社していきましたが、残りの社員は苦難の時期を一緒に乗り越えてくれました。この歌を聴くたびに毎日現場に顔を見にいっていたあの時期の緊張を思い出すのです。

 

私はアーネスト・シャクルトンというイギリスの探検家がとても好きです。彼のことを知る人はさほど多くないでしょう。彼は20世紀初めに未踏の地だった北極、そして南極への一番乗りを争った探検家です。なぜ、彼は知られていないかというと、彼は一番乗りどころか、数度の挑戦に失敗し一度も到達できていないのです。特に第一次世界大戦前には、戦費調達に苦労する国家財政の中、イギリス女王から船を下賜され国家の威信を賭け南極一番乗りを目指したものの、その遥か手前で、船は氷に阻まれやがて夜の明けることのない暗闇の季節に船は圧壊してしまいます。無線もなければ飛行機もない時代に彼と40名ほどの乗組員は極寒と暗黒の南極に身一つで放り出されてしまったのです。

その後の物語は彼の伝記に譲ることとしますが、彼は1年余りの苦難の末、乗組員を1名も欠くことなく帰国させることに成功します。私は彼の物語を20代の長く入院しているときに読み、ずっと心に残っていました。そして、150人の社員へ明日から「仕事はない」との説明に一人で向かうとき、彼のことを思い出しました。毎日が先の見えない暗闇の中、若い女工たちの歌声は決して嬉しいものではなく、道を探さなければならないキャプテンの責任をひしひしと感じるものでした。彼ら社員を一人も死なせはしない、と心に強く思い、それからの数か月毎日シャクルトンのようにありたいと思って過ごしました。私も決して何かを成し遂げられたわけではない経営者人生でしたが、誰もほめてはくれないが、私もこの時はシャクルトンのように自分の天命をやり遂げた、と自分では思っています。

 

 

 

 

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