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10年に4日足りない裁判(中国)

2006年、日本側の指示で「10年以上継続勤務すると、契約を終了する際、10か月分(年数分の月数)の補償金を支払う」制度を契約書に盛り込むこととなった。のち2008年からはこれに近い制度が労働契約法に盛り込まれたのだが、それに先行する形だった。日本側は何も考えていないのだが、そのタイミングで2部門で500名体制を200人以下へと縮小しなければならなくなった。24時間3交代は1交代になり、いわゆる「華南モデル」の最初の方の事例の会社だったので、3棟あった社員寮は1棟でも足りるようになるため売却に走り、同時に値段ではなくバーターでのまじかに迫った土地使用権の更新の折衝を行い始めた。大きな食堂と調理設備。それに10人程度の調理スタッフも抱えていたのだが、これも廃止し不動産を売却した。おかげで手元資金は潤沢になった。この調理スタッフは、現金で市場で食材を買うため経理が不明確で疑念を抱いていたのだが、衛生状況がしっかりした業者に外注する方式に変更し、箸の消毒の運用状況を現地確認したりした。こうして固定費を削減し、なんとか平均原価の上昇を抑えようとするのだが、それでもこれだけの縮小では、人員も減らさざるを得ない。日本語入力などで教育にかなりのコストをかけたのに、オペレーターは一年契約の更新期に成績上位50%は残し、下位50%は契約更新しないことを告げざるを得ない。異動でしのぎたいし、新規業務を生み出したいのだが、日本側の2部門がほぼ同時に縮小を告げてきて、しかも日本側が中国での独自営業独自業務を許さない、あくまでも生産下請け組織という態度を変えないため、こうして「大虐殺」に手を染めざるを得なかった。

ワーカーはそれでも年間の退職率が25%を超える水準だったので、なんとかなった。問題はスーパーバイザーや課長などの役職者である。管理部門の12名を5名に、生産部門も部長級を退任させ、リーダー級も3交代ではなくなるということで1/3以下にできることになったし、またそうしなければ、ワーカーの給与水準を上げることもできなくなっていた。するとそこに、次の契約更新時で10年に4日足りないリーダー級が3名含まれていた。いずれも27歳ぐらいの女性で、2人は結婚していて、一人は日本語が少しわかって私とも仲が比較的良い子だった。最終的に契約継続可否を決定し署名するのは私だが、原案は成績順で、担当課長から上がってくるのだが、これだけの削減を継続しなければいけない状況のため、例外とか温情とかがもう全く入り込ませる余地がない状況であり、本人たちからは文書で抗議があったが、契約を終了せざるを得なかった。

すると、労働調停という制度に3人は申し立てをおこなった。調停委員から調停に応じる意思があるかを打診され、これは文書で正当性を主張し断った。そして、労働裁判(2審制の1審)に臨むこととなった。あらゆる反論に備えるべく、10年前の入社書類を整理し、時系列表と成績表を私自身が整理してデータと申立て書を作成し、深センでも有力な台商協会の労働顧問弁護士をやっていた弁護士に何度も昼夜通い協力を要請した。実は、労働裁判では原告、被告がそれぞれ1名の審理官を指名することができ、そして相手の選んだ審理官を拒否申し立てすることができた。ここの段階で選んだ弁護士先生がパワーを発揮してくれ、開廷当日は落ち着いて出廷することができた。中心に座る裁判官はポロシャツ姿の若者であり、私は起立し、隣に通訳である秘書さんが座って通訳してくれるのだが、練習通り身振りを交え、声に抑揚をつけて時に怒りを交えて主張をし、1時間余りで閉廷した。3人組は作戦をろくろく立てていなかったことと、無理のある「実は10年を超えている」という主張をしてきてその場で裁判官に問い詰められて黙ってしまう状況であり、また緊張で同じことを何度もしゃべってしまっていた。裁判自体は完勝で終わり、その後上告するという文書が会社に届いたが実際には召喚されなかった。熱いさなかのことで裁判所を出ると、北回帰線下の深センでは影がほとんどなく、その中をタクシーを捕まえて秘書さんと帰るとき、バス停で待つ3人組が見えて、彼我の差に胸が締め付けられる思いがした。

中国は労働者優位といわれるが、私がいた会社では人事部門が労働契約、入社手続きなどをきちんと記録し保管してくれており、完勝に終わった。組み立て自体は私の知恵もあったが、そうした管理系のしっかりとした積み重ねが会社を救うのは日本以上に中国では重要である。すぐ公的調停に持ち込まれるし、論理、証拠が必要になる。膨大な資料をその前の赴任して間もなく、すべてめくってすべて整理しなおしていて、状況を私自身と秘書、人事部長が確認し共有していたのも幸運だった。

でも、同じ会社にいた多くの社員たちからすると、前任たちに比べて非情な総経理だったと今でも思われているだろうし、本当は中国で自分たちで仕事を作り出すことに挑戦したかった。陰で動いていたのだが・・・その象徴として、バス停に悄然と立つ3人の姿を今でも夏になると思い出す。

 

 

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