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「過去」の呪縛 その正体

 オリンピックが近づいてきました。実は、わたくし、男子100m決勝のチケットに当選しています。いままであまり、運のいい人生は送っていなかったのですが、ここでその、身を削って貯金していた一生分の運を使い果たしました。そして…中止になるのか、無観客になるのか…それとも大幅に観客を減らして開催されるのか?はたまた、日本人選手だけで国体並みに開催されるのか…

 オリンピック開催是非をめぐる議論は、大きく分けて二つに分かれるようです。そして、そのどちらも「アスリート達の人間の極限への追求を賛美する祭典」という建前とは全く関係がないようです。一つは、「これまで数兆円の関連投資を行ってきたものを無に帰すのはもったいない」という議論です。もう一つは、「違約金が怖い」という議論です。違約金がホントに発生しそれを払わなければならないかどうかは別として、それを前提とすると、この二つは実は全く要素が異なります。

「これまでの投資がもったいない」は、これからの損得とは全く関係がありません。開催しようが、しまいが、これまでの投資はかえって来ません。庶民にはあまり関係のない立派な競技場と、だいぶきれいになった鉄道駅、それに選手村のはずだった大規模マンションが残りますが、これは催行しようがしまいが同じことで、これからどんな選択をしてもお金は帰ってきません。損得という意味では、「どっちを選んでも関係ない話」です。
 その一方で、「違約金が怖い」は、これから先の損得の話です。今の選択が、これから先の税率や公共サービス水準に影響してきます。責任者の判断とマネジメントが必要な話です。

 経営という観点では、過去に支払ったお金がいくらあるかは全く関係なく、これから先のキャッシュフローを最大化することだけを考えて選択すればよいので、前者の議論は無視して、後者の議論についてのみ、発生する金額や確率、それがどのように極小化できるのか?といった検討を進めればよいのです、というのはよく本に書いてある話です。

 現時点で、これから一番良くなる方法を考えればよい、というのはとても前向きですよね。


 ところが、実際には非常に多くのケースで、経営者や為政者は、この「合理的な判断」をできないでいます。むしろ、その合理的判断基準を分かっていて、自身が意思決定権者であるにもかかわらず、その決定を妨げられています。

 一体、その正体はなんであろうか?それはどうすれば排除できるのか?
というのが今回のお話です。

①「責任論」への恐怖

 一番代表的なのは、過去の投資が失敗だったことへの責任論が噴出し、自分の首が取られることへの恐怖です。
 そもそもこの「責任論」というのも怪しいものです。失敗したとしても、それでもなお、他の取りうる選択肢よりもはるかにましであるならば、今の経営者が続投することが株主、従業員にとっては最適であるはずであり、これも「今からの最適を選択する」中では、おかしな話です。実際には、誰がやっても経営なんて、そんなにうまくいくものではないのです、そんなに口汚くののしるんだったら、お前やってみろ!と私は、いつもメディアを見て思っています。

 やってみて、能力の低さが露呈して、ほかの人の方がよい、という判断ならば…それは仕方ないですね。でも、人間の多くは、このように「合理的」ではなく、感情で物事を決めるものなので、「責任論」を振りかざして「罰を与える」ことで溜飲を下げようとする株主、有権者がいることは認めなければなりません。

 首を取られると言っても本当に命を取られるわけではありませんので、ここから先での最善(合理的円卓)を選択して、審判を待てばよいだけのはずなのですが、「保身」のため、そして、自分がある程度の資源配分をコントロールできるだけに、「組織の総力を挙げて頑張れば今よりもう少しましな着地点までは行けるのではないか?(そして、続投できるのではないか?)」という判断をしてしまい、傷口を広げてしまうのです。

 この手の「弥縫策」が効果を発する時と発さない時の区別は実は簡単につきます。多少なりとも効果があるのは、「市場」の現実を冷静にとらえて、その市場へ対応し直す修正を行っている時です。そして、まったくと言っていいほど効果がないのは、「市場の一部なりともを(会社にあわせて)変えられる」と考えているときです。
 特に後者で多いのは、「市場は今後その方向に変化していくであろう。」と多くの人が考えているが、現状ではその割合は小さいという現実に対して、「自分たちが働きかければ、その変化は加速する」という考え方をするものです。

 私は良く言うのですが、「トヨタであっても市場は変えられません」。そして、社員の「頑張る」という気持ちは1週間しか持ちません。頑張る頑張らないの問題ではなく、値段と性能が市場にあっているかどうか?の問題なのです。

 経営者に判断の誤りがあることもあります。実際、どんな経営者でも多くの誤った判断を日々行っています。それが重大な事態になるかどうかは、「こまめに早めに修正する」ことでしか回避できません。

②イデオロギー論を排除できない

 これは、自分のイデオロギーであることもあるし、同時に経営者は多くのケースで類似するイデオロギーを有する経営者コミュニティの中にいて、その相互作用の影響を強く受けている中で、自分だけがそのイデオロギーに反する決定を行うことが集団圧力、グループシンクの中で行いにくい、という両面があります。

 イデオロギーというと、高齢の方は、「共産主義」「社会主義」という事を思い浮かべがちかもしれませんが、最近では、「環境」「社会貢献」「ダイバーシティ」などの一種の道徳観、本来は経営の存続のための「手段」であるはずのものが、「目的化」していることが多くみられます。メディアで取り上げられる「若手ベンチャー経営者」などではこの傾向が顕著です。

 あるいはそれを要求する強い圧力があるケースも多く、「短期・および中長期のキャッシュフローの安定的な極大化」という本来の経営者の役割とは異なるイデオロギー論にあちらこちらで晒されます。また、それをSNS等で語り、積極的立場を明らかにすることが資金や人材を集めるのに一見有利であるとの見解から、安易にそこについて発言してしまい、そして自分の発言に縛られるというケースも見られます。

 これらは大企業が100年の計を考えるにあたっては、確かに無視できない部分がありますが、中小企業が経営するにあたっては、「手段として必要」なものは行っていき、必要性が変わったら、君子豹変す、でいうことを変えてしまってよいのだと思います。経営者は人格者である必要はなく(犯罪とされるような行為をするのは論外ですが)、社員と株主をきちんと守り、優れたサービスを消費者に提供し、きちんと納税を継続していくことが唯一最大の責任であり、社会的貢献であるはずです。
 それ以上のことが自分にできると思うのは、ある種の思い上がりです。

③合理性を判断できない「多数」に依存する業務遂行

 政治家が正しいと思うことを主張できない最大の原因は、それを主張しても有権者が理解してくれない、むしろ反発して選挙に不利になるからです。政治家が選挙で選ばれる以上、大衆の思考パターンに合わせた発言をせざるを得ないのが、民主主義の限界です。そして、民衆の大半は、「すでに発生した費用は、今後の利益の大小の判断に影響を与えない」という当然のことを理解しませんし、理解したとしても、「自分の感情」を理屈に優先させ、それが自分の利益にどう影響を与えるかを深く考えることなく、発言し、投票行動を行います。

 では、会社はどうでしょうか?経営者は政治家と異なり、社員の人気投票で選ばれるわけではありません。むしろ、経営は民主主義とは異なり、意思決定権を最終的には一つに限るという「独裁」を株主に委任されている仕組みです。しかし、それでもなお、「社員に理解されない方針」を取れないのはなぜなのでしょうか?

 それはもちろん、「会社は社員がいないと回らない」から、社員の感情を無視できないからです。ただ、これも私は基本的には無視して良いものだと考えます。一番正しい方法は、「合理性を説明してわかる人を幹部として残して、それがわからない人には他社へ行ってもらう」ことです。その「他社へ行っていいよ」と言える仕組み、つまり業務の文書化や定型化の要素を高めること、あるいはそのような業務は外部に切り出すことが、正常な組織を運営するのにとても大事である、ということを軽視していたということです。

 また、「モチベーション」なるものに左右されない、実績を評価する人事評価制度を敷くことがいかに大事か、ということでもあります。社員が最も信頼する会社は、「市場に合った方針が明確になっていて、それに基づいて結果がでていて、安定的な社員への配分がある会社」であり、「優しい会社」ではありません。

 

④「多数派の利益」への期待

 意外に無視できないのが、「みんなで渡れば怖くない」的なグループシンクです。特に大企業や大きな業界では、政府に適切にロビイングすれば、「多数派の不利益」を減じるようなルールが変えられるケースが実際に存在します。
 最近でも、新電力業界が、JEPXでの電力市場価格の高騰に対して、後からのルール変更をねじ込む、という事例がありました。この市場が不完全なものであり、様々なリスクを抱えていることは市場関係者はみんな知っていて、そのうえでリスクをヘッジする様々な手法があるにもかかわらず、それを自分の経営判断として取っていなかったにもかかわらず、です。

 多数派になること、勝ち馬に乗ること、は現実に経営の選択を行う上で、決して無視できない判断基準です。多数派である、とは市場(消費者)にこれまでは支持されていた(そしてこれからもしばらくは支持されていくであろう)、という事の結果であるからです。

 しかし、実際の経営判断にあたって、その「マフィア」を抜け出す判断がしにくい、という事については別の問題です。それが市場の変化に伴うものであれば、市場に対応するのが経営者の判断として唯一の正であり、従業員の気持ちを無視して良いのと同様に、マフィアの意向も無視してよいし、あなたの会社がそこから抜けたところで、そのマフィアは痛くもかゆくもないでしょう。

 一度、ロビイングが通用してしまうと、今度は政官産の連合体が強化され、その後の資金やその他の協力がずっと求められ、その一方で実際、ずっとロビイングが通用するわけではありません。市場の変化はどんなに政策で抑制しようとしても、止めようがないし、止めたところで海外からいくらでも流入してきます。従うべきは、「市場」なのです。


過去に囚われるのは、人間の性、と言う人もいますが、実際には、それには「構造」が存在しています。その構造がわかれば、抜け出し方、変え方もわかるはずです。

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