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「創業者」の特異性

これまで多くの「経営者」の方々と親しくさせていただいてきました。注記を入れさせていただくと親しくとまで言えるのは全部男性でして、その前提で話をすすめさせていただきます。経営コンサルという、この仕事をする価値のかなりの部分は、社員になかなか理解してもらえない孤独さに耐えながら、社員からは見えない高いところからの景色を楽しむ経営者の人格に触れることができるというところにあります。一流のアスリートの「努力」の言葉に重みがあるように、経営者の語る「人間」にもその重みを感じるのです。

社員に万能や高い能力を求めることは間違っています。普通の人が普通の勤勉さでも十分機能する組織でなくては企業はスケールしません。しかし、経営者は万能を世間から求められます。社内で起きる全ての事象と判断の責任者であり、同時に会社の価値と品格の体現者でもあるからです。そうはいっても、実際には経営者も人の子。能力も気力も有限です。日本人は理由もなくリーダーを批判する傾向がありますが、それは自分がその立場に立とうともしていないから、その想像力が欠如しているのです。むしろ、学校も家庭も従順な労働者を育成することを重視し、チャレンジャーを生むことを抑制してきたといってもよいでしょう。

経営者と言っても、社内で社員から昇格して役員、代表になった方(私もこちらの経験が多い)や親の事業を継いだ方と、創業者とはまた全然異なります。前者の方が、圧倒的に「普通の人」「常識人」のことが多いです。そのことは、時に調整型のリーダーが破壊的イノベーションを産めないことを批判される背景にもなっています。それもちょっと酷なことであり、企業規模が一定以上になると、会社をめぐる様々な制度がマネジメントに「能吏」であることを要求するようになります。

一方、「創業者」は、ちょっと特殊です。一般に事務処理能力に優れ、社会の規範に適切に従うことを是とするタイプはあまり創業したいとは思わず、組織の中で活躍する方を選びます。会社が成長すると創業者も、コンサルタントが作り出したような、もっともらしい社会的意義や事業理念を語るようになりますが、多くの場合、創業者が創業するきっかけは「これをやりたい」という衝動と、「人に従いたくない、自分にとって居心地の良い場所を自分で作りたい」というわがままです。このように、戦後日本の千歳あめ型教育システムと同調圧力文化の中で、これに従うことを由としない「突然変異種」が創業者には多く見られます。

その特異性は、「そんなん売れないよ」と言われてもそれを無視して独自性のある商品・サービスを非常に高いエネルギーで追及し続けるという内なる原動力となり、人と情報を吸い寄せる求心力となり、周囲から見ると自ら光を放つ太陽のように見えます。「普通の人」にはそれは到底真似することができず、それが格好良く見えるものです。知的バイタリティに満ちたハイカロリーリーダーが創業者には多い。

しかし、こういう人のすぐ下の部下は結構大変です。24時間その情熱に焼かれるように急かされて続け、妥協を許さない態度に疲弊していきます。こういう人は、普通の人には「何言っているかわからない」ことや「無理難題」「朝令暮改」ばかり言います。当の本人には全然そのつもりはないのですが、創業者の「常識」は普通の人の常識と乖離しているのです。

マーケティングとは何か?と言われると私は、すこしずつでも市場のニーズに近づいていくための試行錯誤の方法論であると答えます。そして、その方法論に従えば、「普通の人」でも改善プロセスを進めることができることが素晴らしいのです。しかし、その結果として製品が大ヒットするかというと、悲しいかな、そんなことはめったにありません。生まれるのは「小さな前進の積み重ね」です。もっとはっきり言ってしまえば時代を変える製品は、マーケティングからは生まれません。それは天才の「狂気」から生まれます。そして、大ブームを起こした創業者はカリスマとなり賞賛され、公的な立場に立ったりメディアの寵児となっていくわけです。

ところが、この大成功した創業者のうち一部(あくまでも一部ですよ、一部)は、「常識が他人と異なる」という言い方をしましたが、その特異性は仕事の面だけでなく、他の部分でも他人と異なっているのです。極めて偏執的であったり、自己中心的であったり、そして一部の人は狩猟本能丸出しであったりします。今回、某有名企業でニュースサイトなどでも滔々と意見を述べていた創業者がセクハラ常習犯であるとして世間様の非難を浴びていますが、こうした「オスの本能のままに生きている」タイプの創業者も狩猟本能的な中には少なからずいました。(そしてアパレル系や造形関連ビジネスに多い!)仕事柄、私は「経営者、創業者」という書き方をしましたが、この「普通ではない人格」が仕事では成功面に出つつも、私生活面では反社会的というパターンは企業経営者に限らず、昨年は日本で有名反戦ジャーナリストで問題になり、それ以前はアメリカではハリウッドの有名プロデューサーの破戒が露呈したり、と各分野で見られる現象です。(女性ではこういう例は聞いたことがありません。)

このようなことが露呈すると、メディア等で「成功者の奢り」という書き方をされますが、それはおそらく正しくありません。成功する前からずっとその調子であり、それはその人の「人格そのもの」です。依存症ではないか?と思うこともあるのですが、「認知の歪み」はあるのだと思いますが、短期的なものではなく、言ってみれば「性格障害」です。成功した「原因」は同時に「反社会性」の原因にもなっているのです。もちろん、特に性的嫌がられ、というか今回の事例など報じられる一部は犯罪性の強い「暴行・強姦」に類するものであり、そんなことが現代、社会的に許容されるわけがありません。これらは昭和の時代であっても良しとされたわけではないのですが、エシカルであることが今ほど社会が経営者に厳しく求めていなかった時代には生き延びることができたものでした。そのような社会認識を引きづっているのではないか?という書き方がされることもありますが、それも違います。

今の時代、当たり前の常識として私たち一般市民は「セクハラはワンストライクアウト」だと知っています。他人の人格の尊重ということを怠ると仕事も社会的立場も失う恐れがあります。それを件の有名人たちは知らなかったのか?というと当然知っています。知っているどころか、そのようなエシカルな言動を必要に応じて上手に公の場でしてさえいて、そのような場では失言もありません。「才能の裏返しとしての反社会的異常性」は、それでも止められない宿痾であり、人間の二面性のなせるものです。そして、現代の規範に沿えば、おそらくは、その人がいかに有能な経営者であったとしても、人物ごと排除することが避けられない、「治らない病気」です。

今回の事例はまた、反社会性を裏側で抱える創業者、それも非上場企業のオーナーという形のものを排除するプロセスが、会社の機関では機能しないことを示しています。そして、それを補完したのは、LINEやFacebook messengerなどの「記録」であり、それを忖度なく曝露することができるSNSの世界でした。私は、これは現代の「希望」だと考えます。多分、年齢も時代も関係なく、これから先も反社会性を含んだ創業者は生まれ続けます。それを教育や罰則で封じ込められはしないでしょう。発覚した場合には本来は、取締役会が機能すべきことであるのですが、取締役会や監査役会自体がこうしたハイカロリーなリーダーのもとでは、牽制・チェックと排除が機能しないことは組織に携わるものとしては容易に予想できることです。そして、マスコミすら信用されない現代のチェック機関は、いろいろな問題を抱えつつも、しばらくはSNSであり続けるのだと思います。

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