あと2週で平成が終わってしまいます。子供の頃、明治43年生まれだった祖父に「明治・大正・昭和・・・おじいちゃんすごいねー」と言っていたのですが、そういう私が「昭和・平成・令和」と三時代を生きることになるわけです。これも全くの私事ですが、先日誕生日を迎え、お付き合い先の子供でもおかしくないくらいのうんと若い平成生まれの社員の方からもお祝いの言葉をいただいてしまったのですが、彼らとはいろいろな面で考え方が相違していることを如実に感じることが増えています。
今年は、2000年生まれも高校を出て仕事をし始めたんですよ。2000年ってつい最近だったような気が…そうして時代は変わっていくのだなあ、と思い自分の過去の経験に基づく考えを口にするにも注意しながらしないといけないな、と思うのです。
もっとも、彼らが面と向かって、「おじさん、それは古い考えです。」と言ってくれるわけではありません。彼らは不満を黙っていて、そしてある時本当のことを言わずに会社を去っていきます。(本当の意見はSNSに書いてあったりします。)そんな彼らを見て、経営者、あるいは管理職が気を付けなくてはならない「昔の常識」をいくつか書いてみます。
「若いうちは下積み・雑用」~石の上にも三年~論は通用しない
今、若い世代には、「補助的や役割しか与えられない」「雑用の中から見て覚えろ」ということは全く通用しません。自分がそういう目にあったからといって今になって自分の助手として若い社員を使おうとすると辞められます。つまり、あなたの先輩が解放されたようにあなた自身が雑用から解放されそれを人におしつけられる日はもう来ません。その代わりITツールを使ってその部分を効率化して自分でやってください、ということです。
私も実は20代の家電店の時、尊敬する部長から言われました。「石の上にも3年というだろ。まず3年頑張ってみろ。楽しみはそのくらいしてわかって来るんだよ。」⇒2年と11か月で辞めました。
そこそこちゃんとした頭の持ち主だと、その業務のKSFが何か?そしてその組織の動かすポイントがどこなのかや問題のありかは3か月から長くても半年も経験すればだいたいわかるのであって3年も必要ありません。その「状況が分かった」状態からは、試行錯誤しつつそれぞれのポジションで成果を出す期間で良いのだと思います。
そもそも5年前、10年前の業界知識や主力技術がいまだに通用している業界はあまりありません。そのため、5年、10年といる社員のその会社での経験の大半は、「陳腐化した知識」と「その会社内での処世術」でしかないことを若者は知っています。
同様に「長年の経験による勘」は言語能力の低い層が標準化投資ができない企業で言っていることであり、文書化し、システム化し、あるいはAIによる推論により予測可能にすることこそが、本来の「仕事」であるべきです。
他へ行って自分を売り込む気力と言語能力を有する、本来必要な、高い能力を有する若者は、昔のように躊躇することなく、研修を受け、留学させてもらったとしてもその会社を辞めて、「次のステージへ発展」することを選びます。そういう時代です。会社は選ばれる側でもある、ということをわかっていますか?
「無難な服装」「無難な発言」主義
これも最近、変わったなあ、と思うことです。私もスーツが仕事をするのにもっとも生産性を上げる服装だとは思っていません。高温多湿のこの国で適宜洗濯することを前提としない服装は非合理的だと思っています。ただ、特に営業の際には、「相手の常識・ルール」に合わせることが基本だと思っていました。ところが、最近の若者はそうでもない。
「自分はこういう考え方です。」ということを言葉でも服装でも平気で貫く。そして、それにより売り上げが変わるか、というと実は大して変わらない。実力のある人は売れるしそうでもない人は売れない。
そもそも、この「無難にいく」発想は、「第一印象でちゃんとした人とおもってもらえるように」ということが本来の目的だったはずですが、「ちゃんとした服装」「通り一遍の挨拶」が若い世代ではその機能を果たさなくなっているのです。
困ったことです…えっ?選ぶセンスがないからです。
集団主義と個人主義
上2つの変化のバックグラウンドにあるのが、この「集団主義」が若い世代に支持をされなくなってきていることです。それこそ会社行事での飲み会やイベントもそうですし、飲み会でも、一杯目から飲むものはバラバラで「とりあえずビール」ではない。そんな仕事と直接関係ないことばかりではなく、仕事でも「個人の成果」を評価し、2年目ぐらいから昇給に差がつく中で、かつての基準が「会社の」「部門の予算、目標」だったことに対して、今は多分に「個人の達成・成果」になっています。会社の評価がそうなっているだけでなく、社会全体が「個人の目標」「個人の趣味や楽しみ」をますます尊重するようになってきており、生活でも仕事でも、「個人」が「集団」に優先することが当然視されるようになっています。
「軍隊」的な集団主義が当たり前であった世代はこれが体感として理解できない。部門の成果を最優先するのが自分だけであることに、不満やいらいらを抱きがちです。そう、「自分だけが集団の犠牲になっている」という感を覚えるのです。若い世代も集団に協力しないわけではありません。ただ、自分の成果と集団の成果、自分の行動と集団の成果が論理的に紐づいていて納得できないと自分の行動のモチベーションにはならないので、頭ごなしにいっても、冷笑されるのです。そして、その「集団の犠牲になることが当然ではない時代になった」ことがわかっていないバブル世代管理職が成果を上げられないばかりか、組織の機能不全を起こすという事例が多発しています。
「言われたことしかしない」
これを言う人は多い。しかし、私はそういう人に言いたいのですが、「あなたは新卒の頃、そうではなかったのですか?」
すると、二つぐらいに答えは分かれます。一つ目は、「気が付かない」ことへのいら立ちです。これは確かにその傾向はある。私もそうなのですが、昔は、親や先生に「叱られないようにビクビクして育つ」「機嫌を伺いながら様子を見ている」というのが習慣になっていましたし、その「空気を読む」ことが正しいこととされていました。しかし、今の若者たちは、そんな育ち方はしていません。むしろ、そのような「他人の気分の先読み」は「無駄だし、おかしなこと」と思っています。やってほしいことは、リストにして渡すし、説明もする、というのが今の時代は「正しい仕事の指示の仕方」です。
逆に、建設的で活発な場を作ることや話し合いの場で司会をするというようなことを中学、高校の頃から教育の場で身に着けてきている傾向にあり、団塊ジュニア以上の「大量生産型教育」とは集団に対する考え方がかなり相違しています。
それも「自分がやらされていたから、今度はお前の番だ」論が多い。①に書いたように、それは個人の成果や能力の向上とは関係ないので、聞いてもらえません。
もう一つの「言われたことしかしない」の正体は、「もう少し考えろ」ですが、こちらはもう少し根が深いです。まず、答えのある問題に解答を出すことはできるが、答えがあるかどうかわからない問題をプロセスを踏んで分析する、ということができないという若者は確かに多いです。しかし、その割合は私が若いころと変わりがありません。むしろ昔の方が多いぐらいです。今はそうした「日本型教育の弊害」が言われて、高校、大学で主体性ある教育に力を入れている教育機関が増えていますので。
その上で、その人がちゃんとした管理者ならば(そうではないことも多いが)、「求める成果」を明確にし、「そのプロセスを考えて途中レポート」することを求めているはずですが、そのプロセスを考えるに足る基本パターンをその人は持っているでしょうか?人は全く0から考えるわけではなく、類似のパターンを模倣し、その構造を理解して目の前の問題との共通部分は流用し、変更が必要な個所は他から別のパターンを持ってきて組み合わせる、という形でプロセスを組み立てることが大半です。その基本パターン自体は、掛け算の九九のように大量に覚える必要があります。では、その仕事の九九は誰がどのように供給するのでしょう?公文式の様にドリルになっていれば一番よいのですが、逆にOJTと言う名の放置で何年もかけて自分で勝手に習得させるしかないのでしょうか?おそらく、「言われたことしかやらない」という文句の大半はこの「勝手に育つはず」と祈っているタイプです。短期間に大量に取得させるための過去の提案パターンや実施事例の資料、トークなどは期限を決めて覚えさせるなどしなくてはならないのです。そういう努力を強制するのは、逆にOKな人が多い。(でも、覚えた後辞めて他社で使うかもしれません。)
というわけで、最近目にする(私も気を付けている)世代のギャップを4つぐらいご紹介しました。