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中国とんでも事件簿 趙某の事件

中国に赴任して間もないころ起きた最初の事件。趙某というCADオペレーション関連部門のNo2だった趙某が起こした事件です。もう、私がいたその現地法人も解散し、そして日本側のその部門もなくなってしまったので、この話は初めてします。このとき何が起きていたかは同じ会社の日本側の人にも話していませんでした。

 

ある日、一通のメールが趙から届きます。2005年当時の彼の給与は月額4000元ぐらい(一般社員の約3倍)、まあまあいい方でしたが、そこそこ有名な大学の機械工学出身で、世間相場からすると決して高い方とはいえない水準でした。その前月には深センでは反日デモの嵐が吹き荒れ、会社の近くのイオンがデモ隊にさらされる事態が起き、反日感情には敏感になっている時期でした。来たメール、それは「給料を一万元に上げないと退社する」というメールでした。副総経理に相談したところ、「上げる必要はない、自分が話す」と言ったのでいったんは任せたのですが、彼は今度は日本側の管理者、そして取締役にも同様のメールを送り、日本から「穏便に収束せよ(日本らしい言い方!)」という指令が届く事態になりました。

副総経理がいったんは対話したものの「総経理と直接交渉したい」との一点張りで、その部門の駐在員として先に赴任していた同じ年齢の日本人を通訳として席に着き、なんと夕方5時にシフトが終わってから11時ぐらいまで延々と中国語と英語、それに筆談を交えて話すに至りました。彼の主張は、

・自分がいないと問題が起きる。―これは当該業務として問題が起きるという意味だとその時点では思っていたが、実は違っていた。

・自分はやめてほかの日系に情報を持ち込むつもりだ。

・給料を1万元に上げるか、退職金10万元を払ってほしい。

ということでした。彼はこの時点ですでに34歳、私と同じで結婚もしていましたがぼろな寮住まいでした。まあ、もちろんそんな交渉に乗るつもりは全くなく、辞めるのは個人の権利だが、規程に存在しないお金は払わない。営業秘密の漏洩は法的措置をとる、と回答するわけですが、当社に現地の他の日系に漏れて困る営業秘密なんて「その時点では」ありませんでした。

中国では(東南アジアのお土産屋やヨーロッパの蚤の市でも同様ですが)、最初高く言ってきて、それを低く返し、お互いが時間をかけてじりじりと譲歩し歩み寄りしてその中間付近で妥結する、という交渉手法が一般的です。そして、中国では、この方法が「面子をつぶさない」方法だとされています。規程とか法律とかはこの場合、彼らの中では関係ありません。そして、原則論をいうと中国人はすぐ「面子をつぶされた」と言って激怒します。私も含めて多くの日本人は自己評価が低くて潰されるような面子すら持ち合わせておらず、中学校ぐらいになるともうひどいことを言われてもへらへらして受け流すというのが処世術になっているわけですが、彼らは違います。趙もあちこちの知人の法曹関係者やらに彼は当たり始めて、その都度こちらには、その費用も上乗せして請求すると言ってきて、日本には都度「総経理が話し合いに応じない」と報告をするわけです。

歴代の総経理や部門に赴任する日本人担当者の弱みが日本からの指示に逆らえないことにあり、日本人が事なかれ主義であることを彼は10年程度の勤務のうちに知っていたのでこういう作戦を用いたわけですが、日本側の担当部長も役員への防波堤になってくれたおかげで原則論を貫くことができました。管理部門に退社するのかしないのかどっちかはっきりしろ、と言わせ、給与を変えないまま担当を職権で交代させ「無任所」にし、翌月末に退社に追い込みました。

風の噂、というか彼のあとにそのポジションについた、彼と親しい管理者の話では、彼は友人とお金を出し合い、ただ彼は資金が足りなくて借金をして、深センでおそらく初めてのマンガ喫茶を作った、ということでした。彼は研修で日本にも来たことがあったので、その時に見知っていて自分で起業したかったのでしょう。当時から若者の起業意欲はとても高く独立のため辞める大卒社員はたくさんいました。そして、それを友人と事業化しようとしたら、友人は資金を拠出できるが自分はできなかった、それでは自分は主導権を握れないという背景があったようだということが後からわかりました。その話を聴いて、「なーんだ」と思ったのですが、それから2,3か月程度しか経っていないころだったと思うのですが、そのお店が行き詰って閉店した、という話を聴きました。

 

話はこれで終わりではありません。そのマラソン交渉に同席してくれた私にとってただ一人の日本人同僚が、がんの一種になり緊急に帰国させることになりました。私の赴任中、もっともびっくりした出来事の一つでした。予後のいい種類でそれほど心配する必要はないものだったのですが、ご家族のことを思うと、「直してすぐまた復帰して」とは到底言えず、一旦帰任という形をとり、450人の中国人の中に普段は日本人は私一人、という状況になりました。そして、それから2年後、我々がやっていたのと同種の業務を別の上場企業が同じ深センで展開することとなり、大手メーカーから委託を受ける約140人が従事する我々の主力業務がある日突然その会社に奪われるという事件が起きました。この事態はまた別の機会にお話しするとして、その時状況を確認するためその会社に勤めている人間を高い給与を提示して採用面接を行い、そのあと彼を高価な食事に誘い何が起きているのかを確認しました。(もちろん費用は自腹です。)

するとやはり、趙某が裏で仕組みを作るのに一役買った、ということがわかりました。おそらく一時金をもらっていたと思われます。そして、当社と同じ仕組みをコピーされ、日本語教育のテキストも持ち出させてしまっていたのです。さらに分かったことは、趙某は立ち上げ段階ではリーダー的な立場で活躍したものの、その後社内で日本側と衝突してその会社もすでに辞めている、ということでした。結局、彼はつぶされた面子をこういう形で復讐を果たしていたのです。彼の気はすんだのでしょうし、私は防御策が不十分であり、それをノーマークだった競合に付け入られた、というのは日本側含めた失敗でした。

あのとき、趙にお金を払っていたら、その部門の140人とともに数か月仕事がない状態を生き抜くという地獄は味合わなくてもよかったのかもしれません。

 

中国でも退職者に競合企業への就職を禁止する契約を結ぶことは可能です。ただし、それは給与や退職時にその補償金が十分に支払われていることが前提と法律上で定められています。日本語テキストの持ち出しも寮での勉強を推奨し、寮でも集まって勉強会をして(よく私がそこに飛び入り参加して)いたような社員たちに禁じることは難しかったのです。

「面子」の怖さは知っていたつもりですが、とんだ復讐を受けた、という物語でした。

 

それと、これは日本でも中国でも同じことですが、彼のような激しい、見境のない性格のタイプの人間を要職に付けるべきか、ということはこの事件の根本の問題としてありました。副総経理は彼は危険だ、という認識をもっていたのですが、その部門の部長(以前でてきた清華大学出の王さん)は、「彼は一流大学卒で賢い」(それは本当)ということで実務を構築するために重用していたのです。ところが給料が思うように上がらなくなるとこのように牙を剥かれました。

これは中国だから、というわけではなくこの手のタイプの人間はどこにでもいます。自分だけでなく組織が歴代引き継がれていき、業績が良いときも悪いときもあるという中ではこのようなタイプを組織に招き入れるのは危険だったのだと思っています。それは日本でも若い経営者によく助言することでもあります。この事件の芽も1996年、彼を採用した時点ですでに撒かれた種だったのだと思うのです。

 

 

 

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