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国際婦人デー 中国と日本

今日、3月8日は国連女性デーです。1904年3月8日にアメリカ合衆国のニューヨークで、女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こしたのが起源であり、日本ではあまり知られていませんが、各国では様々な行事が行われています。中国では、この日、法定で「女性だけ半休」になります。とはいっても、私が総経理としていた会社は現場はすべて女性。工場などでも女性労働者が非常に多い国ですので、これをきちんと守ると(私は守っていました)午後から休業になってしまいます。日本ではない、珍しいタイプの祝日です。

以前も「女性は天の半分を担う」(こちら)で書いた通り、中国では仕事上の男女平等はかなり厳格に実現されています。もっとも家庭でも平等かというと、そうではない、実は中国の女性は仕事に妻に母にと日本以上に大変という記事でした。

 

最近、お付き合い先で妊娠している方や小さい子供のいる方の苦労を目の当たりにする機会が何度かありました。そのさなかに、先週東京メトロ・表参道駅に掲出された屋外広告が物議を醸しました。広告では、「ニッポンのワーキングマザーはかっこいい!」として、「働く女は、結局中身、オスである」「”ママに見えない”が最高のほめ言葉」「ちょっと不良なママでごめんね」「忙しくても、ママ感出してかない!」というフレーズが書かれていました。

私が生きてきた時代は仕事ができる女性は、ここ何十年かの企業の男社会が作った枠組みに従い、その中で男と同じような「働き方」「意識」を持っていることを宣誓しなくては、組織内で居場所が得られない時代でした。そして、そうではない女性は、補助的な役割しか与えない、というのが長く続いた男性優位社会の掟であり、それは確かにいまだに大企業を中心に根強くあります。

しかし、この広告文句、そんなに問題になるようなことなんですっけ?強くあらねばならない、という悲壮感は感じますけど、別に育児を放棄するとかいうことは言っていませんよね。「結局中身はオスである」は物議狙いのバズワードで、発行側はしめしめというところでしょう。みんながみんなそう思っているわけではないし、自分らしさ、女性らしいしなやかさを大事にしたいという人もいるし、男女関係なく競り合いたいという人もいますが、いずれにせよ、体力に勝る(知力に勝っているとは言えない)男性に何等かの方法で対抗し同等以上の成果をみせなければならない状況に置かれている現状を言っているのだと思います。

 

私が歩んできたような古い体質は破棄されるべき、ということは当然として、今の比較的新しい企業は、「男女はもちろん、国籍、年齢、その他の属性にかかわらず、成果のみで評価する」ということが「新しい道徳」になっているように思います。そして、そこには、「法律で定められた出産、育児、介護等の保護策はコンプライアンス事項として守る(これすらできていない会社もまだある)」が「それ以上の対応は一企業では無理(収益、労働力的に)」というコンセンサスがあるように思います。

そうなると今度は、「家がどうこうは関係なく、仕事場では男性と、方法や仕事のスタイルは違っても良いが結果として成果は男性以上に出していかなくてはならない」が女性をめぐるルールになっているわけです。このニュースの批評記事を読むと多くの記事で女性の大学教員が、この広告を批判しているのですが、私からするとその批判の多くが「女性のリアルを反映していない」というようなものなのです。しかし、むしろこの広告の方が、「成果主義の中で対等に戦わなくてはならない女性のリアル」を表していて、先生の方が「成果主義の厳しさ」を理解できていないのではないでしょうか?

 

一方、先ほど私が直面したお付き合い先の問題は、「企業はそこまで面倒見切れない(そんな体力はない)」なかで、女性、あるいは育休などでは男性も含めて、働く個人が、子供や年寄りの問題と仕事の拘束時間との折り合いをつけなくてはならない、ということから起きています。例えば企業は本人の状況に応じて適正な休暇を与えることは義務付けられていますが、それを有給の休暇とすることは義務付けられておらず、ほとんどの企業では無給での休暇を取得することができる、という規程になっています。そこに一部は助成制度を設けて促進しようということもありますが、そもそも中小企業では、そうしたことを調べて問い合わせて申請するようなリソースもないし、そのために社労士にお金を払う、という姿勢も時間や労力の余裕もない。

あるいは、「そのような上乗せの優遇制度を設けると優秀な女性を集めやすくなる」ということも良く言われますが、私が知るある女性経営者の会社(小規模)は、こうしたことに積極的に取り組んでいたのですが結果起きたことは、大企業で勤めた、中くらい以下の成績(トップクラスは大企業に残る)の人、特に営業職の人が、結婚して出産を考えて、大企業ではそのままではいろいろやりにくいし営業職はきつい、という感じでその会社に転職してくるので、転職してしばらくすると産休に入る、という女性社員が続出したのです。そして今度はその継続性と誠実さのない顧客対応に嫌気がさして男性の営業社員が皆辞めていきました。私は彼女に、「成果を追求し、成果がないものは男女を問わず報酬に差をつけ下位を代謝する仕組みを前提としないと、その仕組みは実際には、稼げない人を集めるだけになりますよ」と言っていたのですが、彼女は信条として「人のやる気」を信じていて、そのような「非人道的(と彼女は言った)な方法」をしないという考えを頑固に守り、結局会社はうまくいかずに終わりました。彼女は私の世俗の誘惑を断ち切り、自らの信仰に殉じたわけですが、その彼女は信じていた従業員に、さんざん文句を言われたそうです。追い打ちをかけるように私は彼女にいいました。「大企業の競争では勝てない人に、都合のいい会社として出産育児期の収入源として利用されただけです。」(それ以来、会っていません。)

 

なぜ、こうなるのか?それは、同程度の能力の人で比べた場合、仕事と仕事以外のことを折り合いをつけて働く人よりも、すべてを犠牲にして働く人の方が成果が短期的には上がる傾向があること、そして、仕事の報酬が「成果に関係なく勤続年数」だった時代から「成果主義」に変化したからです。そして、今のところ、この成果主義以上に優れた「公平で公正」な評価方法が見当たらないのです。しかし、公平で公正であることが人にやさしいこととは相違していて、人は皆稼ぐ力が十分あるというわけでもない。その人たちの受け皿になった彼女の会社は低効率に苦しむ羽目になり、だれも経営者である彼女を助けてはくれなかったのです。

若い父親が子供を連れて出歩いたり、買い物に行ったりという姿を当たり前のように見るようになりました。それが「時代が変わった」というと若い人には驚かれますが、私が子供の時代にはそんなことすら珍しいことでした。私が生きてきた時代よりは、だいぶ女性にとって良い時代になったようには思うのですが、一方で男性の収入は共働きを前提とし、継続的な雇用を前提としないものが中心となってきています。「男女平等」で普通の力量の社員に「家族を一人で養えて」「終身的な生活保障」ができるような圧倒的な収益力を保持し続けるような会社はなくなったからです。

私自身、企業を強くするという立場からは、「成果主義的人事評価の導入」が第一の処方箋であるケースが現時点では多いと思っています。しかし、それが女性と、男性の人生の幸せの最大公約数なのか?ということには疑問も持っています。

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