いろいろな会社のお話を聞くようになり、「社長とは何をする役割の人か」「部長とは何をする人か」というところを十分知らないまま、管理職につかざるを得ない人が意外に多いことに気づく。私は今は中小企業とお話しすることがほとんどだが、そこでの部長たちは、若い企業の場合は、多くの場合他社では「管理職の経験がない、現場で活躍していた人」がやる気と地頭の良さを買われて、社長の右腕として活躍していることが多い。そういう組織にきちんとした予算立案と統制、そしてそれのための目標管理制度や成果主義的評価を導入しようとすると、そこで果たす部長の役割の大きさに直面した彼らは、「今でも実務で手一杯なのにそんなことまでこなしきれない」という反応を示す。
それは、忙しいのではない。恐ろしいのだ。
振り返って見れば、自分も役員や部長、室長を20代からたくさんやってきたが、だれに「定義」を教わったか?というとたしかに「管理職研修」的なものはいくつか出たことがあってそんな話があった。(上司は部下の倍働け的なものやシャープのアトム研修もあった。)あるいは、目標管理を導入する際に、「目標設定研修」が管理者に行われてそれを受講したこともあった。しかし、何が自分の中で「管理者像」を確立してきたか、というとこれらの知識がベースにありつつも、「部下の収入、ひいては人生への責任を負うという気持ち」、「うまく業績が上げられなかったときの申し訳なさ」など、実務の中で「痛い目にいっぱいあった」ことが大きかったように思う。
私は、部下の結婚式に出るのが嫌で一回しかでたことがない。部下と飲みに行く、ということも部下から言われたときぐらいしかしなかった。それは主義などではなく、「自分が低評価をつけなくてはならない、あるいは排除しなければならない」ことへの畏れが理由の大半だった。実際、目の前の結婚まじかの部下を親会社にかなり無理に転籍させていやだと泣かれたこともあるし(普通に考えればその方がよいはずなんだが)、地道に事務作業を貢献してくれた社員を利益への貢献になっていない、と職位を下げて辞められたこともある。しょうがないのだ。事務作業など各自が自分で要領よくやればよいことで、そこに部門内で一人置くような時代ではないということは普段から言っていたのだから。私も旧来の道徳観が強いほうなので、こういうのはとてもつらい。おかげで10代の頃から胃潰瘍持ちである。(44歳の時にピロリ駆除をしてから劇的に改善した)それでもやらなければならない立場だと思うと、普段から部下とカラオケに行くとか、家に招くとかそういう気分には到底なれない。本当はガラでもなくもっと仲良く楽しく会社で過ごしたい、とずっと思っていた。でも、管理者というのはそれができない仕事だと思っていた。
最後に勤務した一部上場企業には、こうした役職の「あるべき姿」は利益の数字で明確に定義されていた。管理者とは「数字の結果」の責任者である、という明確な定義であり、その中でどのような方法論を取るか(実際にはいろいろな資格制度や研修はちゃんとあるのだが)は各々のスタイルに任せる、という考え方だった。しかし、これは「お題目」としては良くても、今そこに至ることが出来ず、どうすればそこに至れるかを悩んでいる若者の道標にはならない。もっと「これを意識しなさい。これをトレーニングしなさい」という実用的な誘導が必要なのだと思う。そこで、今日はそんな話をまとめてみたいと思う。
1 自分の担当部門をいつまでにどこまで成長させるか(ビジョン)とそれをどうやって実現するかについて部下や社外の関係者に納得感のある話しができる。
つまり、「青天の霹靂で指名されこれから勉強します」ではなく、こうやればこうできる、という自分なりの考えとそれを実現したい、という強い意思がありそれを人に話すと、聞いた人は「なるほど、できるかもね」という程度には思ってくれる。という程度の具体的イメージがある人を選ぶべきであり、社員は管理者になりたいならば、健全に「自分ならばこうしよう」ということを下にいる時から考え、時にはそれを発信するべきである。
2 四半期程度のスパンで、担当部門が具体的数値としてどのような目標を達成するのか(それは1の先の目標の通過地点として)を数値や完成物定義で明確にでき、それに必要な人、お金を集計できる。(予算)つまり、誰が何をどうすればそこに行きつくかの「仮説」がキチンとWORD,EXCELに落とせ、社長や部内の社員に共有できる。
具体的なゴールとそこにつくためのステップが明確になっていればこそ、そこに必要な費用、人数、時間も推測できるし、個人がどのステップをどのように分担するのかも計画できる。そして、それが見えている部下は、自分が達成すれば部門も達成するという安心感、納得感のもとに作業を進めることができる。また、社員はそれをもとに、「自分はではどうするか?」を分解的に考えることを学ぶことができる。
3 自分の事業に関連する、あるいは機能を補完する社外の人脈を積極的に構築することができる。
顧客だけでなく、新しい取引先や業務提携先、あるいはイベント開催の協力者など、「仕事に必要だが社内にはない資源は社外から調達する」という感覚が、現場の社員には乏しいことを補うことが管理者には求められる。営業自体、部下の面倒に忙殺されるだけでなくこれらの人脈を構築して何等かの「飛び道具」を併用しないと大きな成長は自力だけでは成し遂げられない。これはただ単に会食をたくさんこなせばよい、あるいは交流会で名刺を集めればよいというものではなく、お互いお金のタームでの取引関係だけでなく、業界の情報について与え合える関係を構築することができるかが重要な要素を占める。「業界内では情報通、有名」というのは、調子がいいだけでは意味がないが、そうしていろいろな相談が持ち込まれるような情報のハブになっている、ということは自社の判断の精度や、判断の選択肢を広げるという意味でもとても重要である。
4 稟議書類作成、申請処理、部下の評価進捗面談などのルーチーンで相手にとって何が必要かがわかっていて要領よくこなすことができる。
この能力は実に大事で、これが早い人とダメな人では一日の活用可能時間に2,3時間の差が普通につく。昔のように事務員さんが部長の名前で各種申請を代行してくれるような時代ではない。というかその事務員に稼がせなくては実績上がらない。しかも内部統制や人事評価制度の明確化により企業で管理職がこなさなければならないルーチン、しかし、決して不必要や重要ではない、というわけではない事業の本質にかかる部分は増えている。端的にいえば、作文の苦手な人は向かない。
ただし、これは社員として能力が低いと言っているわけではない。作文なんてできなくても、人脈構築が下手でも、べらぼうに売る社員は、それもベースに管理職ではなく、社員として高い評価を受ければよい。私はよく言うのだが、部長より一般職の方が高い給料でも全然かまわないと思っている。管理者は「管理業務の性能」を求められる職種である、というだけのことである。ただ、部長がそこそこ高い「部長の役職給」をもらうことには賛成である。それは、「部長は部門の社員の給与のアップダウンを決める業績の責任者」であり、彼らの人生を背負うというプレッシャーにさらされるからである。
そして、もっといい人が現れたり、こうしたことに向かないと社長や自分が認識したら部長は交代し、社員として活躍すればよい。と私は関わる若者たちによく話します。
5 いろいろな知識が必要ということを知っていて、それらが「どんなものか」程度は知っている。
担当の時には、主な役割が「売るだけ」「作るだけ」だったかもしれないが、部長はちがう。その部門の利益の責任を担う、ということは経営の基礎的なことは一通り知らなければならないということ。たとえば、営業でも、資金繰りの基礎や事業評価の基礎は知って他社と話すべきだし、財務でも、営業のKPI管理によるオペレーションやマーケティングは知っておかないと銀行にうまく説明できない。部長とは「ミニ経営者」であり、万能性を要求される。これも高い役職給の理由の一つである。ただし、本当に万能であることは無理なので、自分の専門外の部分は、「本で読んだ知識」でもしょうがないと思う。それでも知らないよりは判断の質、対話の深みが全然変わる。そして、「必要なのに、自分はよくわかっていない」ことさえわかっていればそれを知っている人を探して頼むことはできます。でも、知らないことを知らないで判断してしまうと悲劇に陥ります。そういうベースになる「基礎力」はとても大事です。
いかがでしたか?書いていて、どうやって部長を創るか?というのはとても大事なことだと自分でも思いました。それにいつも成功してきたわけではなく、失敗も多くあるのですが、この話題、しばらく週に1つぐらい投下したいと思っています。