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戦中派に敬意を表して

この記事はだいぶ前から書こうと思っていましたが、正月休み中に書いています。日本の組織の挑戦の足を引っ張る体質、横並びを良しとし、儲けよりもトラブル回避を優先する体質。あちこちでだめだ、だめだと言われるが歴史上ずっとダメだったわけではない、つい1、2世代前にもチャレンジに満ちていた時代があったことを次の世代に伝える時期に自分もなってしまったのかな、という思いを持ちつつ。

 

終戦後の1947~48年をピークとするベビーブームに生まれた世代を「団塊の世代」と称します。ようやく訪れた平和にどっと出産ブームが起きたのは実は日本だけではなく、諸外国でも同じこと。名付け親は元経済企画庁長官で評論家の堺屋太一さんです。現在70歳を超えた人たちです。ちなみにその子供の世代は、1973年をピークとする第二次ベビーブームで「団塊Jr」と呼ばれ、ここは45歳前後に達しています。この二つの山の人口が今の日本では大きなボリュームであり、たとえば、70歳の人は1歳の子供の倍以上の規模がある、日本で最大勢力であるのが今の日本の姿です。年末年始にニュースになっていましたが、亥歳で言えば、一番多いのは1947年生まれ(今年72歳)で206万人、次は1971年生まれ(今年48歳)で196万人、2007年生まれ(今年12歳)は106万人、ちなみに2018年の新生児は前年から2.5万人へって92万人。今年は90万人程度の見通しとどんどん減り続けています。

 

さらに団塊世代の5~10歳上の世代は昭和12年(1937年)の日中戦争開戦後に生まれた「戦中派」です。前置きが長くなってしまいましたが今回は、その戦中派のお話。実は私の両親、そして義母もこの世代です。そして、この世代のトップに仕えて働いた時期が私はずいぶんあり、みんな魅力的な挑戦者たちでした。むしろ、その下の世代の方が保守的な人が多かった。当時はそれがなぜなのか分らなかったのですが、今になってみるとそれが「時代の空気」だったことがわかってきたのです。

まず、身内のことを書くのは気が引けますが、この戦中派がどんな時代を生きてきたのかがよくわかる事例をいくつか挙げてみます。

・私の義父は(妻が幼少時に亡くなりもちろんあったことはない)、長野の中学を出た後、汽車で上京し「夜学」に通いながら「農機メーカー」の仕事をしていました。当時は田舎から次男坊以下が上京して、(会社の支援を一部受けながらのケースも多い)夜学で学びながら働くのはありふれたことでした。

・私の父は父親が子供の頃に祖父が結核(当時の死因第一位)でなくなり、農作業の手伝いをしていましたが、そろばんがやたらと早かったという理由で、兄弟で一人だけ高校に行かせてもらい(農村部ではそれが勉強ができる子の「貴重なこと」で、そのように勧めるのが、「学校の先生の仕事」だった)、その技能を生かして気象庁(昔はそろばん名人をたくさん集めて計算していた)、そして証券会社の計算課(そういう部署が普通にあり、そろばん名人をたくさん集めて大量の伝票処理をしていた)に勤め、その後「第一次~第二次オンライン化」のメンバーを務めました。

・私が仕えたある社長は幼いころ、満州から引き揚げてきて、苦労しながら需要拡大が続く自転車メーカーに勤めて全国の自転車屋を回って営業ルートの開拓を行い、労働組合の激しいゲリラ的山猫ストと対決しながら会社を上場に導きました。

・また別の仕えた社長は、80年代(天安門事件の前)にすでに中国へ単身乗り込み工場を合弁交渉などを経て興し、「中国人に日本語を入力させる」ことの方法論自体、そしてシステムも自分で編み出し、1000人規模の作業体制を構築しました。かなり現地での政治的工作があったと聞きました。

・別の会長は、裸一貫から下請けの景品製造メーカーを興し、業界ではいち早く中国での大量生産に挑戦し、コーヒー飲料のおまけ景品の受託生産で大きな成長を遂げました。

 

他にもたくさんあるのです。若い人たちからしたら、NHKの歴史ドラマでしか見られないようなこうした挑戦・冒険がこの世代では当たり前のようにあり、私はこうした世代の薫陶を受けて育ってきました。

学があったわけでも、家が裕福だったわけでもない、今の日本の産業の基盤となっているものを最初にかたづくる挑戦をしてきた人たち、そしてそれを企業内だけでなく、自分が一国一城の主として一山あげようと立ち上がり猛烈主義で働いてきた世代がこの世代です。今危機に瀕している都市の町工場群もこのような経済環境の中で創業され、大変な努力の中で事業を育てられたものが多く存在しています。今とは大きく環境も相違しますが、彼らは過去70年ほどの我が国の中では、最高のチャレンジャー世代だったと思うのです。そして、そうしなければならないほどに日本は、日本人は貧しかった。働かなければならなかったし、同じ働くならばすこしでも豊かになる方法を皆が必死で探していた。昔はサラリーマンも土曜日も「半ドン」といいつつほぼ夕方まで働いていましたし、夜は10時11時までの残業が当たり前で、子供は日曜日しか父親に会わないのが当たり前で、その中で親の世代は自分たちが受けられなかった高等教育を子供に受けさせ、食べられなかった肉をわが子にたらふく食べさせてあげること、そのことに一生懸命だった、そういう時代だったのです。

 

 彼らの多くがビジネスの第一線からは退き、その下の団塊の世代も企業勤めの方はもう退職して数年がたつ方が多くなってきました。今、我が国を支える(私を含む)世代は発展途上国の経済的追い上げに汲々としながら彼らががむしゃら、モーレツ、多少のインチキをとにかく積み重ねて作り上げてきた競争力の遺産で食いつないでいる状態であり、そして再び貧しくなりつつあります。彼らは今、静かに、そして豊かになった日本でそれなりの老後を送っており(実は年金制度も十分な実行がされていないケースも多い、年金を満額受け取れていない人もこの世代ではかなりいます。)

そして、何らの主張をして社会の矢面に立つことはほぼなくなっています。多くのその世代に、当時の仕事の話を振ると、こういいます。「時代は変わったから」「今は今のやり方があるから」

 

それはその通りなのです。 もちろん今起きている様々な社内や社会の問題も彼らが作ってきたものの副産物です。しかし、それは彼らの時代においてはおそらく妥当だったものが、今の時代に合わなくなっているものであり、それを変えるのは今の主役世代の責務であり、彼らを非難するのは筋違いであるとも思います。

 そして、「作り上げる」「変える」「まずは経済的に豊かな社会を志向する」ことを強く行わなければならない時代が6,70年たって再度やってきている中、彼らが何を考え、何を犠牲にしてきたのか?はその教えを受けてきた私の世代がもっと話すべきなのかもしれないと最近考えるのです。挑戦と変革の遺伝子はたかだか1,2世代前、そしてまだ多くの方が生きている中にあったのです。

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